八法十六法についての研究抜粋記事
302 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 08:13:32 ID:SmEF4Oe2O
「仏陀の真実の教えを説く(上)」38頁〜39頁(和訳書き下し文)

仏、摩カ男に告げたまわく、
「若し優婆塞能く、自ら戒に立つも他をして正戒に立たしむること能わず。
自ら浄戒を持つも他をして持戒具足ならしむるけと能わず。
自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。
自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣で往いて沙門を見せしむること能わず。
自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。
法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。
自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を観ぜしむること能わず。
自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。
摩カ男よ、是の如き八法成就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくなり」と。

304 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 08:32:04 ID:SmEF4Oe2O
「仏陀の真実の教えを説く(上)」40頁(現代語訳)

仏さまはマハーナーマに告げられました。
「自分は仏の戒を受けてそれを守っても、他者に仏の正しい戒を受けることも、またそれを保つことも勧めない。
自分は布施を行っても、他者が布施を実践するようには勧めない。
自分は塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えても、他者に塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えるようには勧めない。
自分は熱心に沙門の説法を拝聴しても、他者に正法を拝聴してそれを受け保つようには勧めない。
自分は仏法の深遠な教義をよく観察して、それについて熟考するようには勧めない。
自分は深遠な仏法を知り、法に近づき、法を追求しても、他者が法に近づき、法を追求するようには勧めない。
マハーナーマよ、このように八法だけを成就する者は、自分を安らかにし慰めても他を安らかにし慰めない優婆塞というのです」
と。

306 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 09:01:01 ID:SmEF4Oe2O
「仏陀の真実の教えを説く(上)」43頁〜44頁(和訳書き下し文)

仏、摩カ男に告げたまわく、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を安んずと名づく。
何等を十六と為す。摩カ男よ、若し優婆塞、
正信を具足し、
他人を建立し、
自ら浄戒を持し、
自ら布施を行じ、
人に施を行ずるを教え、
自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、
自ら専ら法を聴き、
亦人に聴くを教え、
自ら法を受持し、
人に受持するを教え、
自ら義を観察し、
人に観察するを教え、
自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、
亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。
摩カ男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し亦他人を安慰すると名づく。」


309 :深山:2010/11/27(土) 12:25:18 ID:PVMmP38M0
231 :神も仏も名無しさん:2008/06/10(火) 13:16:16 ID:kPIVgXUc

「信戒施聞修習満足す」
「信戒施聞し、聞けば即ち・・」(33頁)
「信戒施もて聞き、受持し観察し・・・・」(38頁)

ごらんのように、一切事経の八法の説明に「見」が抜けている文章があるのです。
だから、最初の八法だけ読むと、桐山さんみたいに、
「信・戒・施・聞・持・観・法次・法向」になってしまう。
ところが、釈尊はその後の十六法の説明では、
「見」を入れて説明しています。
こういう一切事経の書き方をみれば、桐山さんが
この経典をどう読んだかわかる。
桐山さんは前半の八法だけ読んで、十六法とは
これの倍なんだろうとばかりに、読まなかったのです。
経典は繰り返しが多いから、「どうせ同じなんだろう」と
桐山さんが読まなかった気持ちだけはわかる。
だが、他人に講義するというのなら、それはしてはならない。
面倒がらずに一字一句を丁寧に読むのが当たり前です。
桐山さんはそれすらせず、斜め読みの一知半解で講義をした。
桐山さんは他人の文章を読む時はいつもこのパターンです。

310 :深山:2010/11/27(土) 12:28:44 ID:PVMmP38M0
>>289 :準シュダオン:2010/11/25(木) 19:20:51 ID:1F7rdgXk0
>さて、流石のユビキタスさんといえども、一切事経の八法と十六法とで、
>「聞」の語が、有ったり、消えたり、の事は、わたしが指摘するまで気付かな
>かったのではありませんか?

準シュダオンさんは本当に自惚れの強い年寄りです。
他の人は一切事経を読んでおらず、自分だけは丁寧に読んだから、
何事か理解したかのように自惚れている。
そんなことは批判側はみんな知っている。
>>309に引用したのは、私が二年前に準シュダオンさんに指摘した内容です。
だが、もちろん、彼の頭からはきれいに消去され、
まるで自分が発見したかのように上記のように自惚れている。
批判側はそんなことは百も承知です。
学者たちもみんなそれを知った上で八法十六法を論じている。
今回の議論は、八法十六法の議論ですらなく、
準シュダオンさんの上記の強烈な自惚れと、全体を理解するのではなく、
字面に因縁を付ける国語力の問題なのです。

311 :深山:2010/11/27(土) 12:30:59 ID:PVMmP38M0
信者さんたちの中には何を議論しているのか今ひとつわからない方もいるでしょうから、
まずそこを簡単に説明します。
『仏陀の真実の教えを説く阿含経 上』の最初にある一切事経についてです。
一切事経にある八法、十六法の具体的な項目の数え方を
桐山さんは間違っているのです。
桐山説「信・戒・施・聞・持・観・法次・法向」
だが、経典全体を普通によめば、次のように書いてある。
「信・戒・施・見・聞・持・観・法次法向」
>>306でユビキタスさんが引用している十六法の最後の説明をみれば、
これが正しいことは明かです。
だが、準シュダオンさんは、>>309で私も指摘した八法の説明の所で、「見」が
省略されている事例を出して、桐山説のほうが正しいと主張しているのです。
いや、そればかりか、彼は桐山説とすらも違う主張をしている。

312 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 12:40:08 ID:SmEF4Oe2O
では十六法書き下し文の訂正補完をば。


何等を十六と為す。摩カ男よ、若し優婆塞、
正信を具足し、
他人を建立し、
自ら浄戒を持し、
亦浄戒を以て他人を建立し、
自ら布施を行じ、
人に施を行ずるを教え、
自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、

亦人に往きて諸の沙門に見えるを教え、
自らら専ら法を聴き、
亦人に聴くを教え、
自ら法を受持し、
人に受持するを教え、
自ら義を観察し、
人に観察するを教え、
自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、
亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。
摩カ男よ、是の如く十六法成就する者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し亦他人を安慰すると名づく。

313 :深山:2010/11/27(土) 12:41:09 ID:PVMmP38M0
「釈尊は大系づけてから説明したのではない」

信者さんたちにまず気をつけてほしいのは、
桐山説と準シュダオン説とは違うという点です。
準シュダオンさんはいつもこのゴマカシをする。
今回、準シュダオンさんは、八法と十六法では中身が違うなどという
とんでもない説を出してきた。
これは桐山さんも学者たちもそんな説は唱えていません。
一切事経で釈尊は、八法とそれを他人に勧める十六法を
説いているだけで、八法と十六法が別々だなどということはありません。
では、>>309で示したように、なぜ一切事経では「見」が抜けるような表現の違いがあるのか。
そんなことは阿含経では珍しくもない。
阿含経は文字として書かれたのではなく、話し言葉を文字にしたすぎないからです。
釈尊が文章を書いたり、それを読んでいるのではなく、相手に応じて、
一つのことも様々な表現を用いて説明した記録です。
釈尊は八法十六法という修行法を最初から大系づけてから、
それをマハーナーマに話しているのではありません。
八法十六法はこの時に釈尊が思いついて説明しているのです。
だから、表現が違ったり、言葉が省略されていても何の不思議もない。
準シュダオンさんのように個々の言葉尻をとらえるのではなく、
全体として何を言っているのかを理解するべきです。

314 :深山:2010/11/27(土) 12:43:35 ID:PVMmP38M0
「信戒施聞修習満足す」(33頁)
「信戒施聞し、聞けば即ち・・」(33頁)
「信戒施もて聞き、受持し観察し・・・・」(38頁)

信者さんたちもまず『仏陀の真実の教えを説く阿含経 上』を開いてください。
「見」を省略した上記がある一方で、その同じ文章の前後を読んでみてください。
33頁の上記の文章の前後には次のような文章も入っている。

「・・随時に塔寺に往詣して諸の沙門に見える。」(33頁)
「・・随時に沙門に往詣して・・・」(33頁)

たった十行の文章の中にちゃんと「見(まみ)える」に相当する文章が
二度も入っているのです。
それを準シュダオンさんは無視して、省略された文章だけを
引用して、「見える」がないかのように見せかけようとする。
汚い手を使うのが平気なのか、頭がこの程度なのか、
それともまったく読解力が低いのわからないが、
文章とは全体を読んでこそ意味があるのであって、
表現を省略した部分だけを引用するのは悪質です。

315 :深山:2010/11/27(土) 12:52:34 ID:PVMmP38M0
表現が違ったり、省略されているのはこの経典では珍しくもない。
十六法の説明をしている39頁を開いてください。
>>302でユビキタスさんが引用している文章です。
釈尊は「信・戒・施・・・」の内、信を抜いて「「浄戒・戒・施・・・」と説明しています。
浄戒は信に相当するのだろうが、しかし、信とは述べていない。
その後の十六法の説明では、「信・戒・施・・・」と説明しています。
しかも、その戒については浄戒と述べている。
では、「信・戒・施・・・」と「浄戒・戒・施・・・」のどちらが十六法なのですか。
また、正戒と戒と浄戒とは同じなのか、違うのか。
こんなふうに釈尊の言葉尻をとらえることはいくらでもできる。
準シュダオンさんの理屈が正しいなら、十六法にも二種類あることになってしまう。
八法にも何種類もあり、十六法にも何種類もある??
こんなバカみたいな解釈は準シュダオンさんだけで、他に誰もしない。
別なことを説いたなんて普通は解釈しない。
普通の知性を持っている人なら、これらはすべて同じ事を説いたのだから、
釈尊が信を戒として説明したか、経典成立の過程で混乱したと解釈する。
だが、頭のお良ろしい準シュダオンさんは何種類もの八法、十六法があるのだそうだ。
ダイヤには透明、茶、青、ピンクなどがあり、普通の人は色が違ってもダイヤは
ダイヤだが、準シュダオンさんによれば色がつくとダイヤではないらしい。

316 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 12:55:25 ID:SmEF4Oe2O
「仏陀の真実の教えを説く(上)」45頁

マハーナーマよ、
自分自身が正しい信を持つと共に、
他者にもそれを確立させる。
自分が布施を行うと共に、
他者にも布施行を教える。
自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、
他者にも塔寺への参詣と沙門に見えることを教える。
自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、
他者にも説法を拝聴することを教える。
自分が法を受持すると共に、
他者に受持することを教える。
自分が仏法の深義を観察すると共に、
他者に仏法の深義を観察することを教える。
自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追求すると共に、
他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。
マハーナーマよ、この十六法を成就する者は、自分を安んじ慰めて他人を安んじ慰める優婆塞というのです。

317 :深山:2010/11/27(土) 12:59:19 ID:PVMmP38M0
釈尊は文章で書いたのではなく、話をしているのです。
桐山さんはまるで釈尊が修行法を大系づけたかのように思いこんでいるが、
釈尊はその場で法を説明しただけです。
たとえば七科三十七道品などという分類は釈尊はしていない。
だから、おそらく八法十六法も釈尊本人がこのように名前をつけたのではなく、
後世の人たちが暗記しやすいにつけた名前でしょう。
その場で話をしているのだから、我々がそうであるように、表現が
変わっても、またわかりきっている部分を省略しても別に不思議ではない。
だから、たとえば沙門に「見(まみえ)る」と「詣でる」は同じ意味です。
また「聴」と「聞」は同じ意味です。
準シュダオンさんは話し言葉にすぎないのに、言葉尻をとらえてゴチャゴチャと
意味不明の屁理屈を並べて、煙に巻いている。
信者さんたちは準シュダオンさんの説明を聞いて、明瞭に理解できましたか。
何を言っているのか、ゴチャゴチャしてさっぱりわからないでしょう?
本人の頭の中がゴチャゴチャしているからです。
だから、三善根も意味が二つあるなどという珍説を唱えている。
信者さんたちは、脳味噌がまだら模様になっている老人の話ではなく、
釈尊の簡単明瞭な八法十六法を理解することです。
一切事経で説明している内容はきわめて簡単です。

318 :深山:2010/11/27(土) 13:02:50 ID:PVMmP38M0
×「信・戒・施・聞・持・観・法次・法向」
○「信・戒・施・見・聞・持・観・法次法向」
であって、桐山さんの間違いです。
>>316のユビキタスさんと重複するが、
『仏陀の真実の教えを説く阿含経 上』の45頁を開いてください。
一切事経の現代語訳が載っています。
桐山さんが訳したのだから、信者さんたちも文句はないのでしょう。
ここに釈尊が「では、十六法とはどのようなものでしょうか?」と問いかけ、
次にそれらを全部説明しています。
六行目の「マハーナーマよ」以下がその説明で、
それぞれに番号を付けて引用するなら次のようになります。

1.自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。
2.自分が浄戒を保つと共に、他者にも浄或を確立させる。
3.自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。
4.自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、
他者にも塔寺への参詣と沙門に見えることを教える。
5.自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、
他者にも説法を拝聴することを教える。
6.自分が法を受持すると共に、他者に受持することを教える。
7.自分が仏法の深義を観察すると共に、他者に仏法の深義を観察することを教える。
8.自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追求すると共に、
他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。

引用は番号を付けただけで、文章は桐山さんの現代訳そのままです。
「自分が」と「他者に」が対になって、8組あるのがわかる。
普通に読むなら、4番目に来るのは「見える」です。
これを桐山さんみたいに5番目の「拝聴」の中に入ってしまうなんて
解釈は成り立たない。
また、8番目の法次法向も、二つに分けるような文章の構成ではありません。
信者さんたちも信仰を抜きにして、普通の国語力で現代語訳を読んでください。
どう見ても、桐山説は間違いです。

319 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 13:02:51 ID:SmEF4Oe2O
しつこいようですが、このくらいしつこく示して理解納得させるのはお釈迦様の
説法に倣ったものです。

@自ら戒に立つも他をして正戒に立たしむること能わず。
A自ら浄戒を持つも他をして持戒具足ならしむるけと能わず。
B自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。
C自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣で往いて沙門を見せしむること能わず。
D自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。
E法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。
F自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を観ぜしむること能わず。
G自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。

摩カ男よ、是の如き八法成就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくなり」

320 :深山:2010/11/27(土) 13:07:04 ID:PVMmP38M0
「法次法向は一つの言葉」

桐山説では法次法向は一つではなく、法次と法向は別だと主張している。
経典を読めばわかるように、法次法向をばらばらに説明している箇所は一カ所もありません。
全部、「法次法向」とひとまとまりで説明されている。
他の、信、戒、施などが、それぞれ一つずつ自分が行い、
他人にも勧めるのだと、バラバラに説明をしています。
たとえば、十六法では、最初の七つについては、
「正信を具足し、他人を建立し」(40頁)
「自ら浄戒を持し、亦浄戒を以て他人を建立し」・・・
こんなふうに一つ一つバラバラに説明している。
法次法向については、
「自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、
亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行する」
ごらんのように法次と法向をバラバラには説明していない。
これは八法でも同じです。
33頁で、信、戒などはもちろん、
「・・・諸の沙門に見える」
とはっきりと「見える」が他とは別個に説明されています。
だが、法次法向は
「而も法次法向に随順して知らざるは・・」(38頁)
と一つとして取り扱っています。
普通の国語力があれば、法次法向を別々なものとする桐山説が
間違っていることは明かです。

321 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 13:16:23 ID:SmEF4Oe2O
何等を十六と為す。摩カ男よ、若し優婆塞、

@正信を具足し、
A他人を建立し、
B自ら浄戒を持し、
C亦浄戒を以て他人を建立し、
D自ら布施を行じ、
E人に施を行ずるを教え、
F自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、

G亦人に往きて諸の沙門に見えるを教え、
H自ら専ら法を聴き、
I亦人に聴くを教え、
J自ら法を受持し、
K人に受持するを教え、
L自ら義を観察し、
M人に観察するを教え、
N自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、
O亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。

322 :深山:2010/11/27(土) 13:16:42 ID:PVMmP38M0
ここで信者さんたちに私の>>309に引用した文章をもう一度読んでほしい。
桐山さんが法次法向を別々の物として読み違えた理由を説明しました。
一知半解、早とちりです。
信者さんたちは桐山さんが仏陀の智慧で丁寧に経典を読んでいると思っている。
違います。
「自分の思い込みで読む」のが桐山さんの文章の読み方です。
それを彼は直感的に読むなどと言うが、普通はこういう読み方を一知半解といいます。
桐山さんの八法の間違いはこの阿含経が講義され1982年に
信者からすでに指摘されたのです。
『法友』の質疑応答の中に残っています。
だが、他人から間違いを指摘されるのが死ぬほど嫌いな桐山さんは
間違いを認めず、そのままは突っ走った。
その後、『ダルマチャクラ』に出たときも修正されず、
なんと本として出版されてしまった。
機関誌なら信者くらいしか読まないだろうが、本は世間に恥をさらしたことになる。
信者さんたちに桐山さんのこのやり方を反面教師にしてほしい。
間違いは指摘された時、気がついた時、素直に直すことが、
自分にとっても最善であり、恥をかかない方法です。
だが、桐山さんも準シュダオンさんも頑迷不屈な人たちだから、
絶対に自分の間違いを認めず、どこまで屁理屈を並べる。
信者さんたちは真似しないほうがいい。
それは信仰以前の問題として、あまりにミジメで格好が悪い。

324 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 15:40:55 ID:SmEF4Oe2O
さて、この八法十六法に関して、深山さんよりこのような用語の分類体系などは
後世の付け足しではないかという見解が出されています。
その通りだろうと思いますが、ここでは敢えてあくまでもお釈迦様がこの8ないしは
16という数字による分類を示したとします。
経典としてそのように広まった経緯があるのですからね。
だからまずはあれこれ詮索する前に経典の意味を忠実に捉えねばなりません。
それは仏教解釈の問題ではなく、国語として誰もがその言語表現から共通認識
できるところを誤りなく読み取る国語力です。
ペーパー試験にもありますね。傍線箇所はどこにかかるか示せとかいう設問に
正しく答えられる能力がなければ文章を読む資格はありません。
そしてその答えは幾通りもあるなんてことはなく、必ず限られています。
それが国語の約束なのです。宗教の話ではありません。
だからそれから常識的に考えると準シュダオンさんも認めざるを得ないように
私が@〜G、あるいは@〜Oで示したそれ以外にありません。
もちろん一見それと矛盾するような見や聞の省略表現も散見されますが、
これは単に省略なら省略で説明がつき、根底から覆す材料になり得ません。
そもそも見も聞もなくなっていませんが。
聞の代わりに聴があります。聞くも聴くも同じであることにどうして気付かないのか?
準シュダオンさんすらも指摘し得なかった(指摘したら自分の立場も否定することになる)
「信」が無いことも説明できます。
あの文章でもどっこい信は生きてます。
戒に立つと浄戒を持するの違いですが、仏法に対する入信とは在家も含めて戒を受ける
ことですからね。だから受戒が信と捉えればよい。
仏教でいう信とはナモナモやるけん願い事叶えてチョなんて話ではないからです。
だから釈尊が努めて誰が聞いてもわかるように平易な言葉で示した国語の基本から
考えると、信、戒、施、見、聞、持、観、法次法向の数え方しかないわけです。
まずは国語でその大原則を押さえること。
内容の考察はそれからのこれまた別個の作業なんです。

325 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/27(土) 16:08:19 ID:SmEF4Oe2O
次の作業としてたまたま8×2=16という数字で分類整理された体系の内容考察
による解体作業です。
これは各自自分の中で自由にやってよいと思う。
8だの16だのという数字に絶対性なんかないからです。
見と聞なんか一まとめにしてもよいのではないかなんて提言するのも自由です。
シャカはああ示したが、俺なら同じことを説くのに7つに絞って
七法十四法にするとか、逆に九法十八法の方がよいとかね。
それでもお釈迦様が説きたい真意は何ら変わりませんからね。
しかしそれはあくまでも自分の分類なのです。
経典に示された分類数字の数え方ではない。
自分の分類を示したかったらそれを明記断り書きすべきです。
だってまず経典を忠実に紹介する作業があって、それを終えてから初めて
発展的自由考察をすべきでしょ?それを誰にでもわかるように厳密に区別すべきです。
経典を忠実に紹介する時点で私見を入れてはなりません。
準シュダオンさんはある境界になると常識的解釈を超えた分類がわかるようになる
とか桐山さんが説きもしないことをほざきましたよね。
ならば桐山さんは馬鹿になるじゃないですか?
桐山さんがそう説きたい意図があるならば、まず凡人国語分類を示しておいて
しかし私くらいになると八法はこうなるのであるとそういう示し方をします。
そうしないと単に国語力のない頭の悪い人と誤解されてしまいます。
原文、和訳書き下し文、現代語訳としっかりしているのにどうして解説だけ違うの?となる。
あれは並べて書くのに非常に恥ずかしい話です。
ある意味捏造と違って正々堂々としているとも言えますが、なんてことはない、
自分が国語力のないことに気付かなかっただけです。
現代語訳と解説の違いに気付いていたら、必ず断り書きがあります。
それがない。つまり単なる馬鹿だったんです。
国語の約束に気付かなかったのです。
だから秘伝などではなく、諸君、読みたまえ、お釈迦様はこのようにわかりやすく
分類しているではないか?と自分の数え方が正しいと勘違いして示してしまったのです。

332 :ラシン:2010/11/29(月) 13:24:50 ID:b9Cg2rfo0
>331 :準シュダオン:2010/11/29(月) 12:48:40 ID:1F7rdgXk0
前にもこの八法論議をしたが、「見える」と聞とを別々にする批判派の意見を
見て、あまりに馬鹿馬鹿しくて、よく経典を確かめなかったです。


そもそもどうして法次と法向に分ける必要があるんだ?
どうして見=聞にしなければいけない?

信・戒・施・見・聞・持・観はそれぞれ独立した必要なことだ。
信じ、戒めて、利他し、サンガに詣で、僧の説法を聞く、その教えを受持し、
その法えをよく観察し、法に従い法を追求する。
この八つの姿勢を説いている、八種類の姿勢の必要を説いている。
どこに法に従うことと法を追求することを分ける必要があるんだ?

>見抜ける力量があるかどうかが、
この経典理解のミソですねえ。

力量とかの問題なのか? だからデンパ力と言いたい、笑笑笑笑笑。
つまり、
聞くためには参詣しなければ聞けないからイコールだ、と言いたいのだろうが、
国語力の未発達ゆえの考えが浅い老人の証拠だよ。

聖者とは、その言葉や所作に矛盾が無いから聖者なんだ。
だからサンガに詣でて、僧(沙門)の一挙手一投足をよく「見る」ことが必要だ。
聞くだけではなく、わざわざ「見」というすべき姿勢を説いたのはその意味があるんだよ。

デンパで感じるようなオカルト思考だから、見=聞 なんてアホを考える。
賢者や聖者の証は、その言動によって見分け、自分の修業の糧にするんだけどね。

337 :ラシン:2010/11/29(月) 16:02:09 ID:b9Cg2rfo0
>沙門を見るのが修行なんて、よく思いつくねえw。


釈尊の十大弟子だったサーリプッタがどうして帰依したのか。

それは釈尊の弟子であるアッサジが、ラージャガハで托鉢をしいた折に、
その立ち居振る舞いの隙の無さと清らかさを『見』て強く心を動かされたことにある。
もしこの世に真の聖者がいるならば、その弟子の一人に違いないだろう、
と、感銘して師である釈尊に面会して弟子になった。

桐山さんが得意話しとするオーラの光放でもなく、自慢話やご利益話でもない。
釈尊の弟子となってまだ日が浅いアッサジの一挙手一投足が、
サンジャヤ修行者中、一位二位を誇るサーリプッタさえをも上回っていたのだ。
当のサーリプッタは、その態度の清浄さを『見』て気がついたのだ。

ご老人なら昔の剣道くらい知っているだろう。
竹刀を使う剣道ではなく、武術でいう木剣でのものだ。
真剣勝負とは、切っ先の間合いを直感的に計り知ることくらい知ってるよね。
チャンバラのように真剣どうしを叩き合うのではない、間合いの勝負だ。
その剣の間合いを学ぶのは型から始まる、いわく他者の型を『見』て学ぶ。
空手なども同様に、聞くだけではなく見ることも学びの一つだ。

だから、在家者の初学修養は、沙門の動作をサンガに詣でて『見』るのだ。
釈尊が、弟子に自分ばかり見ていないで瞑想に努めよと言ったのなら、
それはすでに出家を許された弟子が次に為すべき修業を諭したに過ぎない。
奥深く読み取ることを自惚れるなら、その違いくらいは分別することだね、笑笑笑。

ー大パリニッバーナ経抜粋ー『浄土真宗やっとかめ通信』参照
「尊師がみごとに説かれた法は、現にありありと『見』られるものであり、
 直ちにききめのあるものであり、実際に確かめられるものであり、
 理想の境地にみちびくものであり、諸々の知者が各自みずから証するものである』

>「信戒施聞」が、三か所も出てきます。

国語力が低いな、笑笑笑笑笑。
このお経の言わんとしていることは、「信戒施聞」じゃあない。
在家への主題は「信戒施」が基本なんだけど。
そのための見・聞・持・観・法次法向であり、在家の「信戒施」を護持することにつながる。
在家信者に「信戒施」なくば、見・聞・持・観・法次法向も意味を持たない。
釈尊が入滅するときに、四辻にストーパを建立しなさいと言ったことと同じだ。

ー大パリニッバーナ経抜粋ー『浄土真宗やっとかめ通信』参照
アーナンダよ。信仰心のあるまじめな人が実際に『訪れて見て』感激する場所は、この四つである。
その四つとはどれどれであるか?
「修行完成者はここでお生まれになった」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて『見』て
 感激する場所(霊場)がある。
「修行完成者はここで無上の完全なさとりを開かれた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて『見』て
 感激する場所がある。
「修行完成者はここで教えを説きはじめられた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて『見』て
 感激する場所がある。
「修行完成者はここで煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られた」といって、
 信仰心のある良家の子が実際に訪れて『見』て感激する場所がある。
 アーナンダよ。これら四つの場所が、信仰心のある良家の子が実際に『訪れて見て』感激する場所である。

340 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/30(火) 12:57:56 ID:SmEF4Oe2O
>>333:準シュダオン10/11/29(月) 13:35:49 ID:1F7rdgXk0
>「仏陀の真実の教えを説く」本のP58の、お終いから2行目を読みなさいな。
>八法を、次のようにまとめていますね。

今回の準シュダオンさんのゴマカシの手法を「仏陀の真実の教えを説く」をお持ち
でない方に説明しましょう。
準シュダオンさんはページのゴマカシをしているのです。
準シュダオンさんはしきりに58頁から59頁を読めと促しています。
これは私が自利の八法を示した38頁から39頁を引用した直後に書いています。
自利の八法を引用したのは>>319です。(わかりやすいように番号付き)
また自利と利他を備えた十六法の引用を>>321に番号付きで示しています。
これは43頁から44頁ですね。
準シュダオンさんはそれより後ろのページを示したわけです。
では58頁から59頁には何があるかと言うと、この経典全体の漢文白文のみです。
この本の構成は漢文の白文を上段に、和訳書き下し文を下段に、現代語訳と解説を
その後に、細々と節ごとに分けて解説する丁寧なスタイルになっています。
そして全文解説を終え、結論も述べた後に既に解説済みの漢文全文を白文で示して
終わるというスタイルです。
この漢文白文は既に前のページで十分解説済みだからここでは付け足しも何も
ないのです。
準シュダオンさんはどうして丁寧に解説されている前のページを示さずにこのページを
示したか?
それは私が引用したページよりも後ろにあることで、私の引用を否定したいのです。
ところが今回読め読めと示した58頁の後ろ2行というのは、私が引用した頁よりも
前の箇所なんです。
するとどうなるか?
いかにそこで省略表現がされていようとも、それより後で>>319で、八法成就者と
その八法は何であるか誰にでもわかるように示され、尚もこれに利他を含めた
十六法(>>321)に話を進めるのです。
つまり結論はここで下され、前の省略など単なる省略とわかるのです。
だから準シュダオンさんは必死にそれを指摘されないように私よりも後ろのページを
示す眩惑攻撃のゴマカシに出たのです。

374 :ラシン:2010/11/30(火) 17:22:34 ID:b9Cg2rfo0
>341 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/11/30(火) 13:27:36 ID:djQlKM2k0
>>340 ユビさん、これが本当だとするならば、本を持ってない人や無知識な人
(特に自分を含む)に対して悪質な作為を以って居ることが予測されますね。

天照さん同様に、私もアゴン宗本は全て捨ててしまっている。
持っていないことは、何度も掲示している。
しかし、それを知っていながらも桐山本をよく読めなんて嘯く老人がいる。
自分が主張するなら、きちんと正しく引用して議論とすべきだが、
自称準聖者サマである老人は、そのあたりの公平性を欠いている。

>ユビさんの素晴らしい解説、ありがとうございます。

八法十六法は過去に何度か議論されていた記憶があります。
2chでも、深山さんやユビさんが丁寧に論破していた話しです。
今回もそれが再掲されています。

経典解釈は一部を読んでそれを拾い引用しても、全体像が把握できない。
経典に限らず文章の読解は、その文章の前後を読み取り全体をつかむことです。
ユビさんの引用で分かるとおり、釈尊の説明は「見」も重要要素と理解できる。
文節の一部を持って全体を否定することなど、ただのゴマカシです。

見=聞なんて屁理屈は、文章の全体像を無視した拾い読みに過ぎない。
観念的に8だの16だのと、数から出発するから内容を理解できないのです。
釈尊のは説法であり、それは重複したり補説した言葉の口伝が文章化されたものです。
だから文章全体の把握が必要になるというのが常識です。
釈尊の思想面から考えれば、それは清浄行であり煩悩滅を目的とする。
だから、
在家は聖衆の集まりに詣でてその言動を見て見習うことも必要だから「見」の
必要も説いた。
聖者の仲間と会い見えることで法次法向という不放逸につながるのだと理解できる。

376 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/30(火) 20:42:18 ID:SmEF4Oe2O
>>341:天照 ◆MO30b8Jwoo10/11/30(火) 13:27:36 ID:djQlKM2k0
>ユビさん、これが本当だとするならば、本を持ってない人や無知識な人
>(特に自分を含む)に対して悪質な作為を以って居ることが予測されますね。

まあ準シュダオンさんの名誉の為に言うと、それほど意識した確信犯的な悪意では
ないのかもしれません。
これは自己洗脳信者に見られる畢竟防御本能的な無意識な逃げ込みとも解釈できます。
本人すらそのことに気付いていない。
58頁など示さなくてももっと詳しい桐山解説も入った前のページを出せばよいのです。
それを無意識的にも避けたのは、私が38頁を引用しているからであり、それよりも
前のページになってしまう。
準シュダオンさんのゴネはこうです。
一箇所の文章に囚われてはならない。
もっと全体を俯瞰して総合的に判断する必要がある。
で最後の白文を示した。
しかしこちらは全体を俯瞰した上で言っているのです。
それが経典全体を通して表現のごく一部に差が見られることに対する合理的説明
ですが、これにはその表現の順番が大切な指標となります。
見が一見見られない差が私が引用した後、最後の方に出てくるならば、こちらの
方が最終結論なのかもしれないとも思う。
しかし私の引用の方が後に出てくるのです。
そこで一時は消えたかに見えた見が復活してはっきりと自利の八法に数えられている。
さらには見を伴ったまま利他を備えた十六法をはっきりと示す。
つまりはこちらこそが最終結論というのが全体を俯瞰した上での分析結論です。
これに準シュダオンさんは反論できない。
だからなるべく後ろの白文から全体を俯瞰して判断せよなどと一般論的にお説教を
言うしかなかった。
その実自分が一部にこだわり俯瞰などできていないのです。

377 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/11/30(火) 21:25:54 ID:SmEF4Oe2O
>>341:天照 ◆MO30b8Jwoo10/11/30(火) 13:27:36 ID:djQlKM2k0
>自分も解説をお願いしたのはもうひとつ理由があります。
>それは@chs−1の方に名無しさんの回答で自分が答えていますが、阿含宗
>での教学や桐山氏の嘘をわかるための専用のPを作ろうと計画中です。

それならば準シュダオンさんなどどうでもよいから、この一切事経の八法十六法の
桐山解釈のもう一つの間違いについて再度論じることにしましょう。
出家を超えた在家仏教というオハナシです。
ただ著書を引用しての批判作業になるのでしばしお待ちいただきたい。
ただ断っておきたいのは今回の八法の数え間違いの件についても、決して捏造欺瞞
というネタではなく、単なる間違いです。
人間には誰しも間違いはある。私も然りです。
しかし大切な法話として信者に語り、それを活字にまでするのならばもっと
丁寧に読んで間違いを防ぐべきでしたね。
深山さんも指摘している通り、これは信者から見と聞が分かれるのではと
国語の観点から常識的な指摘があった。
桐山さんはこれを退けた。
しかし素直に受け入れればよかったのです。
噛んで説明するように理路整然と失礼のないように示せば桐山さんでも
「あっ、そうか」と気付く話です。
桐山さんでも決して間違いを認めないわけでもあるまい。
私が最後に聴いた例祭法話でこういうのがあった。
2002年の12月かな。
法華経普門品に出てくる観世音菩薩とは準胝観音ではあるまいか?
私の霊感ではそう思う。うん、これからそう断定すると。
そしたら翌日だったか当日だったか法務局職員からメモ書きを示された。
桐山さんはそれを読んで苦笑した。
旧著「霊障を解く」で桐山さん自身が普門品で説かれている観音は準胝観音ではない
と書いているのですね。
桐山さんはそれで間違いを認め前言を取り消した。旧著の発言が正しいと改めた。
そして軽く笑いながら「ははは、管長でも間違えることはあるんだよ」と認めた。
こういう素直な態度で訂正すればよかったのです。
そちらの方がますます信者から尊敬される。
準シュダオンさんみたいにいつまでもしつこく屁理屈にもならない反論すらできていない
ゴネを示す方が見苦しいのです。
これしきのミスで。
今回これから示す在家が出家を超える話も欺瞞捏造ではありません。
単なる解釈の誤りです。
しかし釈尊も説いていない話です。


383 :ラシン:2010/12/01(水) 11:52:27 ID:b9Cg2rfo0
ユビさんの結論が得心を得るに値する、全くのこれを上回る読解姿勢はない。

>376
しかしこちらは全体を俯瞰した上で言っているのです。
それが経典全体を通して表現のごく一部に差が見られることに対する合理的説明
ですが、これにはその表現の順番が大切な指標となります。
見が一見見られない差が私が引用した後、最後の方に出てくるならば、こちらの
方が最終結論なのかもしれないとも思う。
しかし私の引用の方が後に出てくるのです。
そこで一時は消えたかに見えた見が復活してはっきりと自利の八法に数えられている。
さらには見を伴ったまま利他を備えた十六法をはっきりと示す。
つまりはこちらこそが最終結論というのが全体を俯瞰した上での分析結論です。

>上記の事が解らない人は、人を脳梗塞と罵る前に、自分は脳梗塞以下の
脳ミソだと自覚することです。
で、P58のお終いの方に、優婆塞の八法をまとめて、
「信戒施聞受持観察了達深義隋順行法次法向摩可男是名満足一切種優婆塞事」
と、書いてあります。

いえいえ、進行がさらに増しているな、笑笑笑笑笑。

>それで、法次と法向の区別が解るでしょう。

ならば、合縁機縁を分けるのか、悪因悪果や因縁因果、以心伝心、悪意悪食、
一栄一辱、一往一来、お得意の自画自賛などなど、み〜んな分けちゃうの?笑笑笑。
法次法向とは突きつめれば不放逸ですよ。
釈尊の思想は一貫しているのだ、経典ごとに違う解釈などない。
あくまでも教えを説くための様々な切り口が相手によって違うだけだ。
それを語り口の言葉に踊らされて数合わせにこだわるから本質が見えないのだ。
この経で釈尊が一番説きたかったことは何だ?
十六法だよ。
八法だけなら、どうして初転法輪がなされたんだ?
釈尊や弟子が、方々に拡散して遊行した意義は何だったんだあ?
これを自覚して経を読んでいるなら、真に八法だけで満足とはならない。
ゆえに、<さらには見を伴ったまま利他を備えた十六法をはっきりと示す。>と言う、
十六法を分析することが、釈尊の法えを理解し正しく解釈することにつながる。
だから>>376のユビさんの結論が、経典を読解する上で正しい姿勢なのだよ。
全く半端な老人は、半端な解釈しか出来ないようだから見無し八法で終わってなさい。

385 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/01(水) 13:16:19 ID:SmEF4Oe2O
>>380:準シュダオン10/12/01(水) 09:40:59 ID:1F7rdgXk0
>P59の十六法の説明では、往詣沙門と聴受法が説かれていますが、「聞」は
>省略されているのです。経の前半で往詣沙門+聴受法=聞、であることを説明
>していますから、経の後半ではそれを省略しているのです。
>それを忘れて、往詣沙門と聴聞法を別々に数えるとは、鶏より物忘れがひどいね。

↓をよく読んでね。

F自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、

G亦人に往きて諸の沙門に見えるを教え、
H自ら専ら法を聴き、
I亦人に聴くを教え、

ちゃんと十六法で見(詣)と聞(聴)を分けて書いてあるぞな。
みなさ〜ん、この日本語知らない日本人、アゴン宗の信者なんですって。


390 :ラシン:2010/12/01(水) 17:01:25 ID:b9Cg2rfo0
>389 :準シュダオン:2010/12/01(水) 15:34:48 ID:1F7rdgXk0
今日も未だ反論なし、とは何のこと?

笑笑笑笑笑、、>387の漢文訳が滅茶苦茶だと言うことだ。
切り張りは、やめたほうがエエよ。

>この隋順修行の語は、法次法向の両方に係っていますね。

だからぜ〜んぶ、法次法向に掛かっているんだけど。
どうして隋順修行だけなんだあ?
「随順修行法次法向」なら、法次法向に随順して修行する、だろ?
同様に、
「随順知法次法向」は、法次法向に随順して知る、、、となり、
「随順行法次法向」は、法次法向に随順して行ずる、だよ。
随順とは逆らわず従う、信じて従うことだ。
法次法向は一種類の項目ですダ。

釈尊の説いたことは自利と利他、いわゆる自行化他の十六種の項目だ。
だから十六種の項目が最終結論なのですダ。

また八種のうち、信・戒・施は行の基本項目で、見・聞・持・観は行の心構え、
法次法向は道標とか仏道のような意味を含むものだ。
釈尊の説く法えに近づき法えを追求するならそれは、仏道を歩むことだろ?
けだし「法次法向に随順し修業する」と言うことは、三善根という不放逸ですダ。

391 :ラシン:2010/12/01(水) 18:17:26 ID:b9Cg2rfo0

追記

釈尊は八種だけじゃダメですよと言っている。
ユビさんが示してくれた>>302の「摩カ男よ、是の如き八法成就者は、
是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくなり」ですよ。
それで十六種の為すべきことがらを説いた。
だから、釈尊の説いた十六種を検証することが最終の項目の結論を導くことになる。

そこで、>>318で深山さんが示した桐山訳があり、その八組16種の中身に「見」がある。
「自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、
他者にも塔寺への参詣と沙門に見えることを教える。」が、それですよ。

だが、そこで法次法向を2つに分けたら九組十八種になってしまうはずだ。
しかし桐山訳文でさえ、その内容は「見」の文章を入れても八組です。
それとも深山さんの引用法が間違いなのか?
そうなら指摘できるはずだが、一切触れずに沈黙じゃないの。
つまり、
どう言おうが、桐山さんもその擁護論も自己矛盾を呈していることに気づいていない。

394 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 00:28:26 ID:SmEF4Oe2O
>>386:準シュダオン10/12/01(水) 15:07:48 ID:1F7rdgXk0
>誤魔化しは止めなさいなw。
↓をよく読んでね。
>F自ら塔寺に参詣しもろもろの沙門から教えを聞く、
>が、管長の説明です。
>一切事経の経文には、番号は付いていませんよw。

じゃああなたが番号を付けてごらんよ。
あくまでも経典の原文に。
私の方は>>321の付番のように見事にきれいに16の対比文章になりました。
私に作為はありません。
全てこの経典の作者、説法者(釈尊)のおかげです。

395 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 00:37:14 ID:SmEF4Oe2O
>>386:準シュダオン10/12/01(水) 15:07:48 ID:1F7rdgXk0
>経文では、「聴」と「聞」を使い分けているのです。
>見沙門+聴法=聞、なのであり、
>見沙門+聞法≠聞、です。

適当なことを言いなさんな。
そんな足し算必要なく聴法=聞法であり、聴=聞であることは小学生でもわかります。

396 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 00:48:07 ID:SmEF4Oe2O
>>387:準シュダオン10/12/01(水) 15:26:15 ID:1F7rdgXk0
>法次法向の意味が解れば、二つに数えるのが妥当だと解かるのです。
>乗法除法みたいなものです。
>再度言うと、法次とは法に従うこと、順法のこと、法を実行することです。

それを経典のどこで解説しているのか示しなさい。
よろしいか?国語のペーパー試験では文中に示されてもいない、字面だけで勝手に
想像した自分の考えなど書いたら零点と説明したでしょ?
あくまでも文中からその箇所を探さねばならないのです。
そもそも桐山さんの法次法向の説明は法に近づき法を追求するです。
法次が近づく、法向が追求する。
近づくも追求するも同じ意味です。
あなたのように従うなんて言っていない。
ましてやわけのわからん・・

397 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 01:10:00 ID:SmEF4Oe2O
>>389:準シュダオン10/12/01(水) 15:34:48 ID:1F7rdgXk0
>今日も未だ反論なし、とは何のこと?

あなたは昨日も今日もいろいろ書き込みはしているが、未だこちらの書き込み内容に
対して反論のレスなど付けていない、付けたことにならないと申しておるのです。
会話とはキャッチボールです。
「腹減ったね」
「そうだね」
「何か食べに行こうか?」
「和洋中どれがいい?」
「寿司なんかどう?」
「いいね。おごってくれるのかい?」
「割り勘で行こうや」
「仕方ない、まあいいか」
こんな具合で会話には常に相手の言葉を受けてそれに対して何らかの回答を示し
発展していくものなのです。
私の書き込み内容を読んでおらず、それに対する反論を述べていない。
私はあなたの書いた信戒施聞と見が省略された文について見解を示した。
単なる省略である証拠に58頁にあるその文の後、59頁の方でまた見(詣)も
聴(聞)も両方分けて説いて、それぞれ自利の八法と自利・利他の十六法に
誰にでもわかりやすく整理分類して別々に数えている。
一緒にまとめて七法十四法にしても大差ないと思うのだが、たまたま分けて
八法十六法として数えた。
だから見と聞に分けるのが58頁の後に出てくる59頁の結論です。
58頁の表現だけを根拠にするあなたはこの59頁の問題をどう考えるのか?
これを踏まえてこれに答えてこそ反論レス足りうるのです。
すなわちあなたは未だに反論をしていない。

398 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 01:19:11 ID:SmEF4Oe2O
>>392:準シュダオン10/12/01(水) 21:27:43 ID:1F7rdgXk0
>のは止めた方がいいねw。恥のウワノリするだけだからね。

それを言うならウワノリではなく上塗り(ウワヌリ)w

>「仏陀の真実の教えを説く」本の、P58をご覧なさい。
>6行目から、「信戒施」が揃っても、「不能随時往詣沙門聴受正法是則不具」と、

だから私が引用して数字まで付けてぴったり8なり16なりにした>>319と>>321が
58頁よりも後ろに出てくる59頁の白文が原文ね。

399 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 01:30:59 ID:SmEF4Oe2O
>>393:準シュダオン
10/12/01(水) 21:40:43 ID:1F7rdgXk0
>ついでに書きますが、
>増一経では、釈尊が比丘に七成法を説いています。
>すなわち、比丘が成し遂げるべき、七つのことがらとして、
>「云何七成法 謂七財 信財 戒財 施財 聞財 ・・・・」と、説いています。
>在家の信戒施聞、と、同じですよね。

>それらの中に、見える(まみえる)、という法はありませんw。

はい、それは別の経典だからであって、全部共通にする必要なんかありません。
私だって一切事経の主張で見は聞に含まれるとして、一緒にして七法十四法でも
なんら問題ないと思いますよ。
でも一応一切事経では見と聞を分けて八法十六法で数えてしまったんだから
仕方ないでしょうが。
だからこれは単なる国語の問題、相手の文章を文脈から正確に読み取るだけの
問題で教義教学を考察する問題ですらないと何度言ったらわかるのですか?

400 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 02:06:54 ID:SmEF4Oe2O
>>393:準シュダオン
10/12/01(水) 21:40:43 ID:1F7rdgXk0
>ついでに書きますが、
>増一経では、釈尊が比丘に七成法を説いています。
>すなわち、比丘が成し遂げるべき、七つのことがらとして、
>「云何七成法 謂七財 信財 戒財 施財 聞財 ・・・・」と、説いています。
>在家の信戒施聞、と、同じですよね。

>それらの中に、見える(まみえる)、という法はありませんw。

だって比丘(出家の弟子)に対して比丘(出家の弟子)が成し遂げるべきことを
説いたんでしょ?
聞はあっても見があるわけないじゃん。
普段の生活の場が道場なんだから。
往詣の必要がないのさ。
これを在家に対して示した八法十六法と同じに考える方がおかしい。
*

403ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 08:42:18 ID:SmEF4Oe2O
「仏陀の真実の教えを説く」枕元近くに落ちていたのを今朝発見しました。
それではまずは引用だけをしたいと思います。

44頁(和訳書き下し文)
摩訶男よ、若し優婆塞の、是の如き十六法を成就する者は、彼の諸の大衆悉く
其所に詣ずるなり。謂く、婆羅門衆、刹利衆、長者衆、沙門衆の諸衆中に於て
威徳顕曜せん。譬えば日輪の初中及び後に威徳顕照せん。是の如き摩訶男よ、若し
優婆塞十六法成就者は世間に得難し」と。

45頁(現代語訳)
マハーナーマよ、この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆が
すべて参詣するようになります。その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、
長者たち、沙門たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の
威徳は大いに輝きます。ちょうど太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続ける
のと同じように、優婆塞の十六法を成就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。
マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」と。

この現代語にはもちろん問題はありません。

解説と批判は晩遅く以降になりましょうか?

406ラシン:2010/12/02(木) 13:31:09 ID:b9Cg2rfo0
>392 :準シュダオン:2010/12/01(水) 21:27:43 ID:1F7rdgXk0
ラシンくんのレスは、悪いけど目に悪いので読まないよ。

反論できず、且つ腹立たしいからだろ?

>信戒施が揃っても、詣沙門聴受法が無ければ、不備だという のです。

だから全体をもって理解することだ。
はじめは「信戒施聞」なんて捕らえていたのは誰だ〜よ、笑笑笑。
在家の者が信戒施を具足するためには、聖者の集団に詣で彼らに見えて、
その清らかな振る舞いを見る・法を聞く・法を受持する・法の深義を観察する・
ようは聖者を手本とすることだ。
そして法次法向という仏道を歩む、してそれを利他して十六法とする。

法を聞くだけなら塔寺に詣でなさいで済む。
サンガに行けば沙門に会える。
わざわざ沙門に見えなさいと言うことは、その聖者の清らかな行い振る舞いを
会って見ることで実感し、手本として体得することに繋がる。
>>390で基本と心構えに分けたのは、その意味を理解できるように促したのだが、
暖簾に腕押し猫に小判だったのか。

>401 :準シュダオン:2010/12/02(木) 08:31:01 ID:1F7rdgXk0
比丘だとて、洞窟や林で、一人で瞑想している未熟者も居る。
「見沙門」が修行なら、必ず比丘にも、先達を見よ、と教えるはずさ。

おバカキャラを止められないようだ。
孤高にての瞑想者が未熟者だと?
釈尊に出家を認められた初学の弟子はサンガや先輩僧に随順して、
その清らかで隙のない所作を見て覚えるんだ。
身体と言葉と心に汚れの無い沙門の一々の所作には同じく汚れがない。
>>337で当時外道のサーリプッタがアッサジの立ち居振る舞いを見た話しをしただろ?
学習能力というより、相手からの都合悪い引用はいつもダンマリじゃないの。

釈尊が説く煩悩滅を理解していないから「見」などを単に「会う」だなんて考える。
六根不浄の眼耳鼻舌身意の「眼」とは何なのだあ?
だから清らかな眼を必要とする学びの必要だ。
それが、不浄と清浄の見分けだよ。

>402 :準シュダオン:2010/12/02(木) 08:40:32 ID:1F7rdgXk0 あのね、
普通は、P58を読んでからP59を読むでしょう。
P58には、見沙門+聴法=聞であることを示しているのです。
P58の8行目に、信戒施聞、とあるでしょう。
これは見の脱字ではないの です。意識的に見を外しているのです。

この老人は、一切事経経典に書かれていることを無いと信じ、
たとえば信者さん馴染みの応説経の漏尽解脱を因縁解脱があるかのように
錯覚する。
デンパオツムは、たとえようの無い都合リキが働くようだ。

>説いていても、別々に数えて
はいけないのです。別々に数えると9法になってしまうのです。

だから分けてはいけない法次法向なのだ、人まね表現をして墓穴を振るなよ、笑笑笑。

>だから管長は、P41のFで、自ら塔寺に参詣し諸々の沙門から法を聞く、
と、聞を説明しているのです。
見と聴を別別に分けて解説してるからといって、分けて数えるのは間違い
なのです。

何を言ってるか分かっているのかあ?
批判側は桐山さんの間違いを指摘しているのに、桐山説を根拠にスな!
別々に解説しているのは、その両者が二種分けて考える必要があるから、
分類して解説するんだよ。
バカ・利巧とか善・悪とは褒貶だから一緒の意味となる、と言うようなキャラが、
建立されてマ!笑笑笑笑笑。

このデンパ老人は、法次法向って意味分かってんのかな?
単なる教えで無いから「法え」なのであって、それは真の理わりを知ることだから
仏道を歩むことなんだ。
釈尊は在家であろうが、説いている究極の目的は、煩悩を滅すると言う漏尽解脱なんだけど。

>十六法の説明でも、見+聴=聞であることを理解しましょう。

無手勝流で解釈法を捻じ曲げたら、なんでもありの世界で収拾がつかなくなる。
数の勘定もまともにできぬど素人が、解説されてもいない足し算を使うなよ。

407 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 22:29:08 ID:SmEF4Oe2O
「仏陀の真実の教えを説く」
53頁〜54頁より抜粋(桐山解説)

これは十六法を成就している優婆塞のところには、たくさんの人たちが参詣にくる
ということです。それではどのような人たちが、お詣りにくるのかというと、
婆羅門衆、刹利衆、長者衆、沙門衆となっております。
(中略)
そして最後に沙門衆とありますが、これは出家たちを指します。
この部分は非常に重要です。なぜならば、沙門衆つまり出家からも、十六法を
成就した優婆塞は尊敬され、教えを乞われるようになるためです。
ふつう、仏教において出家と在家をくらべた場合、やはり、出家は在家を導く
立場となります。ですから、お経の前半では、「塔寺に往詣して諸の沙門を見る」
となっています。在家の者は道場に行き、沙門にお会いして、沙門からいろいろと
教えを聞きなさいとなっているのです。ところが十六法を成就すると、その沙門の人たちでさえも
教えを受けにくるのです。
(中略)
太陽が日の出から日没まで、かくかくと照っているように、十六法を成就した
優婆塞の威徳は輝いている。それは沙門衆にも劣らないどころか、この十六法を
成就した優婆塞の方が沙門を超えてしまう、ということです。つまり在家でありながら
出家の上に立つということをおっしゃっているのです。
ところがそうではない。正しい修行をする者は、沙門=出家よりも上になるぞ、
と説かれているのです。沙門=出家でさえも、その人の門を叩いて、弟子として
教えを聞くようになるぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているのです。
わたくしは、お釈迦さまは在家成仏の道を示されたのだ、とはっきり断言します。
その文証(経文に見られる証)がこの『一切事経』です。

408 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 23:05:31 ID:SmEF4Oe2O
さて、それではこの桐山さんの説いた「出家を超える優婆塞」に対する反論です。
沙門とは桐山さんの説くように出家修行者であることは間違いありませんが、
ここで桐山さんは大いなる勘違いをしています。
ここでいう沙門衆とは出家には違いありませんが、仏教の出家、すなわち比丘や
比丘尼とは異なります。
沙門出家と言っても範囲は広いのです。仏教だけの専売特許ではなく、仏教以前から
インド社会に存在していたのです。
これには著書の55頁で脚注として説明されてますよ。


沙門  パーリ語の「samana(サマナ)」、サンスクリット語の「sramana(シュラマナ)」の音写。
元来はインドにおける出家者の総称で剃髪し、諸悪をとどめ、心身を制御して
善に努め、悟りを得るために努力する人を指す。またジャイナ教などの諸宗教の
修行者の呼称でもある。仏教では出家の仏道修行者を指す。息・息心・静志・浄志・
乏道・貧道・功労・勤息とも漢訳する

ズバリこの脚注の中の仏道修行者ではない元からいる外道などの出家などの修行者です。
と言うのはお釈迦様自身もともとは悟りを開いて仏道を示す以前から一沙門だった
のです。王子の位を捨てた沙門ゴータマはまだ仏道すら掴めていない。
釈尊だけでなく他にも当時多くのこういう世を捨てて山林にて苦行に励む出家沙門が
いたのです。
釈尊に一番早く弟子入りした所謂五比丘だって、弟子入りする前は単なる沙門仲間
だったのです。
だから仏教の優婆塞が十六法を実践してその教えを人に勧めて
広める時、バラモンや貴族であるクシャトリアや金持ち長者やら、こういう世捨て
求道者たる沙門までもが、その教えを聞きに来て、その威徳は素晴らしいと
言っているだけの簡単な話であり、仏教集団の中において在家修行者が出家の比丘を
超えてしまうなんて、わけのわからんややこしい話ではありません。

409 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 23:31:28 ID:SmEF4Oe2O
一切事経が在家成仏の証という捉え方は基本的に間違っていません。
釈尊は出家にも在家にも等しく解脱の道を示しましたが、在家が出家を超えるなんて
ことはありません。
なぜならば出家と在家の違いとはプロとアマチュアの違いのようなもので
出家の方がすべてにおいて徹底しているのです。
在家は欲望原理の娑婆世界で生計を営み家庭を築き、生産や消費活動をしながら
煩悩をなるべく最小限に減らしていこうとするものです。
だからやはり出家優位と言わざるを得ない。
優位と言っても出家が在家の上に偉そうにふんぞり返るなんてことではないが
教導するのは常に出家から在家に対してです。
在家はこの尊い出家を供養して生き長らえるように支援する。
間違っても比丘出家が在家に教えを乞いに弟子入りするようなことはありません。
在家が出家を超える!
これは沙門を仏教の出家だけに限って解釈してしまった桐山さんの思いこみです。
お釈迦様の経典ではこんな大どんでん返しみたいな暴論はありません。
在家が出家を超えるなんて飛躍論を示すならば、なぜそうなるのか理路整然と
説明があるはずであり、バラモン衆、クシャトリア衆、長者衆などと同列に語りません。
同列に語るのは所詮外道の修行者に過ぎないからです。
こんな簡単な用語の取り違えミスで、出家を超える在家仏教なんて提唱するのは
桐山さんのおマヌケな証拠です。

410 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/02(木) 23:46:42 ID:SmEF4Oe2O
と言うことで、桐山教義批判のネタとその詳細の論をまとめられるという天照さん、
いかがだったでしょうか?
桐山さんは阿含経の一切事経の八法十六法の提示に対して、とりわけ悪意のある
捏造欺瞞はありません。但し冷静さに欠いた思い込みから二つの取り違えがある。
一つは八と十六の数え方の分類取り違えミスです。
私は桐山さんや準シュダオンさんの言うように見は聞の中に含めて考えてよいと
思います。それでも釈尊の真意は変わりありません。
また法次法向とたまたま二連の用語が使われていることから出発して教えを
聞いて保って観察して、いざ実践するのに段階を設けて考えてみる試論も各自の
自由で、アリだと思います。
しかし経典の正しい数え方をまず把握するという作業において、桐山さんは
これを忠実に示す能力が欠けたというわけです。
まずは正しく解説できないとね。正しい国語に則って。
それからもう一つが今回の沙門を仏教の出家と早合点して、仏教教団の中で逆転が
起こるぞ、なんてお粗末なお笑い解釈を示したミスです。
悪意こそないが誉められた話ではない。

412 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/03(金) 08:18:07 ID:SmEF4Oe2O
>>402:準シュダオン10/12/02(木) 08:40:32 ID:1F7rdgXk0
>あのね、普通は、P58を読んでからP59を読むでしょう。

>だから、P59で、見沙門と聴受法を分けて説いていても、別々に数えて
>はいけないのです。
そんな世の中をなめたアホな文章は存在しません。
前半にこう断ったんだから、後半は違ったことが書いてあっても読者の責任において
読み替えて読めなんて無責任な文章は世に存在しない。
クイズやパズルではないのだ。
前半で真実を語ったのならば、後半の総仕上げでもきちんと正確に示すのが
当たり前です。
後半では私が>>319や>>321で付番を補ったように、同じスタイルの文章が見事に
きれいに8対の組み合わせで書いている。これが八法、十六法だと誰しも理解する
のは、意味を解釈したからではなく、文脈のスタイルの上からです。
この文脈スタイルを作ったのは私ではありません。
経典の作者が作ったのです。
真実の八法があの後半の分類によらないならば経典作者の責任です。

414 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/03(金) 08:45:44 ID:SmEF4Oe2O
>>405:準シュダオン10/12/02(木) 10:55:54 ID:1F7rdgXk0
>日本語では「聴」=「聞」であり、小学生でも解かるのですが、
>一切事経の漢文では、「見+聴」=聞としており、聴と聞の文字の意味を
>使い分けているのです。

一般論めいた呟きは不要ですから、具体的にこの一切事経という経典の中から
聞という文字を使って説かれた箇所の意味と、聴という文字を使って説かれた箇所の
意味の違いを文証として論じてみなさい。
皆が納得するようにどう違うのか明らかにしてみなさい。
幸い著書には桐山現代語訳も全てについているのだから。
経典に沿った経典内の論述でなければ意味がありません。

416 :ラシン:2010/12/03(金) 11:18:11 ID:b9Cg2rfo0
>>405:準シュダオン10/12/02(木) 10:55:54 ID:1F7rdgXk0
>日本語では「聴」=「聞」であり、小学生でも解かるのですが、
>一切事経の漢文では、「見+聴」=聞としており、聴と聞の文字の意味を
>使い分けているのです。

この老人のこだわりは、仏法を成就したから「聞」と「聴」を
分けた特別の意味があり、それを知ることが出来ると自惚れている。
ユビさんの指摘に「日本語では、小学生でも解かる」などと同意しながら、
しかし「霊性で理解するか、新皮質脳で考えるか」とか、
または「仏法を会得した者には、そういう字面だけの解釈はできないのです。
そういう解釈では、修行が進んだ者に笑われてしまうのです。」などと自画自賛の
てんこ盛りで、誰も見えない力を鼓舞している。
だが、自分で引用した経文をよく観察したらどうか。

日本語として「聞」と「聴」は大差なしでどちらでも通じる。
あえて分けて考えるなら「聞」は聞こえるとも使えて耳に自然に入ることに比べ、
この「聴」のほうは、積極的な意思が込められている点の違いだろう。
例で言えば、注意して聴き取る 聴き込む 聴取 謹聴 傾聴 聴講などだ。
だから法を聴くという場合は、あえて「聴」の漢字を使い、
種類項目として述べる場合は「聞」の漢字になっている違いがあるだけだ。
老人が自ら出した漢文の経区を見れば一目両全で、『 』で括ってある。

見諸沙門 不一心『聴受正法』是不具足 
信戒施『聞』修習満足『聞』巳不持 是不具足
随時往詣沙門専心『聴法』
随時往詣塔寺見沙門『聴受正法』
十六法 信、戒、施、見沙門、『聴法』、持、観察、法次法向
信戒施『聞』受持観察了達深義 隋順行法次法向

>また、優婆塞の行為の一つの場合は、「聴」の文字を使用しています、
「聴受正法」という具合にです。

だからそれでよいのですよ。
それ以上でも以下でもない、大きな意味が潜んでいるなんて考えることが、
噴飯者になってしまう。
値打ちをつけてハッタリを咬まさないほうが、知性を疑われないで済む。

417 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/03(金) 13:20:50 ID:SmEF4Oe2O
>>413:準シュダオン10/12/03(金) 08:40:50 ID:1F7rdgXk0
>仏教辞典によれば、沙門とは、「ジャイナ教や仏教などの男性出家者を一般
>に意味する」と、ありますから、ユビキタスさんの方こそ、考え方が間違い
ですね。
>沙門衆とありますから、仏教の出家者も含まれるのは当たり前です。

いいえ、ここでこそ頭を働かせないとなりません。
仏教の出家沙門を含めてしまったらおかしなことにならないか?
たしかに在家信者でも熱心に煩悩除去に励む人は出家のそれにも匹敵しましょう。
しかし超えてしまって出家の方から教えを乞いに来るわけがない。
十六法の在家信者って自分が仏の教えを聴いて実践しようということを他の一般人
にも勧めようというただそれだけの人ですよ。
仏教の信者でもましてや修行者でもない人たちにとっては、その人が位の高い
バラモンであろうが、貴族だろうが金持ちだろうが、他宗教の行者であろうが、
それは是非ともそれがしもその尊い法を聞きたいものですと馳せ参じることは
ありましょうが、どうして既に信を起こして戒律を守り修行に励む仏教の出家が
そこにノコノコ現れて、優婆塞ちゃん、教えてよなんて情けないことを言うのか?
これを考えると、出家沙門には仏教のそれも例外なく含む用語ではあっても
ここでいう沙門衆は仏教沙門(比丘)だけは含まない外道出家だと判断できます。

420 :ラシン:2010/12/03(金) 17:25:03 ID:b9Cg2rfo0

大衆とは、社会を占める「大多数の・大勢を占める」とされる人々、民衆です。

ユビさん提示の45頁(現代語訳)の解説では
>その大衆とはいわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、 長者たち、沙門たちであり<

とあるのだから、沙門たちもその一般民衆の範疇にあり同列表記であることがわかる。
つまり仏教修行者以外の沙門たちであることが理解できる。

>それらの人々の中においても十六法を成就すする優婆塞の威徳は大いに輝きます。<

これは比較論ですね。
参詣した大衆であるバラモンたち、クシャトリアたち、 長者たち、沙門たちの中にあって、
十六法を成就する優婆塞の威徳は、彼らを圧倒すると言うことだ。
ではその威徳とは、威厳があり徳望、高徳を言う。
さらに言えば聖徳ではないことに気づくべきだ。

>優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです<

世間に得にくい、手に入れにくい貴重な存在だと言っている。
それは当然でしょう、優婆塞なんだから世間という限定された範囲の中では、
貴重な存在であっても、釈尊に許されて出家した出世間とは、段違いであることを
知るべきではないか。
出世間とは、欲望に支配されない欲望に振り回されない生き方だからだ。
つまり>>408のユビさんが指摘したとおり、
>仏教集団の中において在家修行者が出家の比丘を超えてしまうなんて、
 わけのわからんややこしい話ではありません。<
が、正しい。
阿那含果とは、欲界に戻ることの無い境涯だ。
それが世間という欲望の範疇で評価されるわけがあるまい。
十六法を成就する優婆塞が、阿那含果を得ているなんてあり得ない。
ましてや文脈にも無いのだから預流向などでもない。
預流向以前の四向四果に向かう在家者のことであり、
それでも一般大衆より威徳が高い存在だと言うことです。

421 :ラシン:2010/12/03(金) 17:54:25 ID:b9Cg2rfo0

つまり、十六法を成就する優婆塞の表現を○○法を成就した、
なんて自惚れるから経典解釈を誤るのだ。
この意味は、信・戒・施・見・聞・持・観・法次法向の八種の行いを果たし、
他人にも進める行為を価値あることだと称えたのです。
釈尊の仏法を信じ、戒を課し、利他を行い、寺院に参詣して沙門の言動を見て、
尊い教えを拝聴し、その教えを忘れないで、その深い意義を観察して、
仏道を歩むことを果たす(成就する)なら、世間での評価は大衆の仲に於いて群を抜く、
と言うことが説かれているに過ぎない。
ようは在家者への仏教奨励の言葉であり、その心構えであることだ。

422 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/03(金) 21:35:06 ID:SmEF4Oe2O
>>418:準シュダオン10/12/03(金) 14:38:41 ID:1F7rdgXk0
>お釈迦さまが、「外道の出家者に見えて法を聴け」なんて説くはずがないからです。

そんなことは経典に書いてません。他教団の修行者を勧誘しようと押し売りに
行くのではありません。
向こうから参詣してくると経典には記述されている。
日頃から仏の教えを遵守し、他人にも自分と同じように仏の道を歩むように
働いている在家信者のもとには自ずといろんな人が集まってくると説いているわけです。
とりわけインド社会では身分の高いとされているバラモンやクシャトリアや
一部からは聖者扱いにもされる外道の修行者なども敢えて含めて強調している
と思いますね。普段は頭が高い、控えおろうなんて感じで接点のない方々さえもが
頭を下げてくるわけですよ。カーストの身分差別を超越するわけです。たかだか
バイシャ(平民)の在家信者風情に対して。
これが威徳というものです。
ああ、もちろん外道(異教徒)の沙門なんて仏教教団をライバル視して誰が教えなんか
聞きに行くものかなんて奴らも少なくないと思いますよ。
しかしそのような垣根を乗り越えて心ある求道者ならば、どんな教えか聴いて
みようかと十六法優婆塞に接近する。
優婆塞が自分が教祖になったかのように得意気に説法するのではない。
一緒に正しい法を聴きに比丘にまみえませんかとお誘いするわけです。
あなた方アゴン宗の信者が今度桐山管長の尊い法話を聴きに一緒に例祭に参拝
しませんかとお誘いするようなものです。
おっと、あんたは自分が例祭なんかに参詣しなかったなw

423 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/03(金) 21:57:17 ID:SmEF4Oe2O
>>418:準シュダオン10/12/03(金) 14:38:41 ID:1F7rdgXk0
>十六法成就者とは、阿那含果を得た優婆塞のことでしょう。
>出家経には、優婆塞でも阿那含を得られる、ことが説かれていますからね。
>阿那含果を得た優婆塞なら、名も知られるでしょうし、預流向や預流や
>斯陀含の比丘や比丘尼は、教えを聴こうと、その阿那含優婆塞に詣でるの
>も、不思議はないでしょう。
>優婆塞阿那含は、出家の阿羅漢や阿那含を超えることはないですけども、
>優婆塞阿那含は、出家の預流や斯陀含は超えてるわけです。
>管長はそのことを説いてるだけですよ。

そんなことは桐山さんは説いていない。
そもそも十六法というものは成就するものではなく、実践するかしないかだけです。
そりゃ十六法を真面目に実践している信者は自ずと阿羅漢果を頂点とする解脱の道を
順調に進み、なんらかの佳き成果を上げるものと確信しています。
しかしこればかりはその本人の努力次第で煩悩の除去はどこまで進むかわからない。
シュダオン、シダゴン、アナゴン、アラハンとは煩悩が切れてなくなった程度もの
の話ですからね。
だから十六法というのは在家が努力実践すべきものであるが、だからと言って
阿羅漢果を達成する指標などではないのです。
十六法を実践してもシュダオン止まりの人も十分想定されるのです。
十六法はそんな摩訶不思議な魔法ではない。

424 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/03(金) 22:07:20 ID:SmEF4Oe2O
>>419:準シュダオン10/12/03(金) 14:41:48 ID:1F7rdgXk0
>外道出家が相手なら、なにも十六法を成就せずとも、
>仏道に入っただけで、もう外道出家を超えているのですw。

私もそう思うのですが、しかし「超える」というのは経典の表現ではなく
桐山さんの読み替え表現です。
経典はあくまでも威徳顕曜と参詣に来ることです。
つまり目に見えて相手も認める作用を説いているわけです。
それが外道であろうとも。
もともとどちらが上かなんて話ではないのです。
威徳顕曜だけならば、熱心真面目な在家信者は出家の比丘と較べても遜色はない
という意味で威徳顕曜ということも言っているかもしれない、その場合仏教の沙門も
含めて考えても決しておかしくはないが、しかし沙門衆が優婆塞のところに
詣でてくるという表現がある以上、やはり単なる遜色のない威徳という話だけで
収まるものでないとわかります。
ラシンさんが指摘しているように聖衆たる仏教沙門ではなく大衆たる外道沙門に
対しても目に見えてその威徳がわかると説いたわけです。

425 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 08:16:15 ID:SmEF4Oe2O
>>415:準シュダオン10/12/03(金) 09:01:14 ID:1F7rdgXk0
>経典作者の責任と言うけどね、「如是我聞」の聞は別にして、一切事経に
>最初に出てくる「聞」の文字はP58の8行目の「信戒施聞」の聞です。
>信戒施の次に、往詣塔寺と見諸沙門と聴受法が説明されていて、聞、と出て
>きますから、聞=「往詣塔寺+見諸沙門+聴受法」のことだと解かるのです。

なるほど、経典全文俯瞰しての聞と聴の使い分けの件理解しました。
世間で使われる聞も聴もほぼ同じ意味でありますが、この経典での使用例だけから
見ると、見(詣)+聴=聞なわけですね。
ならばそれに則ってこちらも表現を一部訂正しましょう。
八法とそれの対となる8とは、「信、戒、施、見(詣)、聴、持、観、法次法向」 です。
聞を使ってないから文句ないでしょう?
聞を使ったのは桐山さんだし。対してこちらはどの学者の説なども盾にせず、
最初から自分の頭だけが頼りです。
ですから七法ならば聞を使うが、八法十六法ならば聞などあっさり捨てて
見と聴に統一しましょう。
つまり釈尊は58頁で信、戒、施、見+聴=聞、持、観、法次法向を優婆塞の
実践科目として説いた。
そして59頁で自利のみと自利+利他の実践科目分類をまとめとして示した。
聞を使った七法でまとめるのかと思ったら、見と聴を使った八法とその倍の十六法
を使用した。
文脈とその使用語句から汲み取れる八法十六法はそれしかありません。
さらに使用語句に正確に言うと、八法の方は
「戒に立つ、戒を守る、施、詣+見、聴、持、観、法次法向」の8つであり、
十六法とは「正信、戒、施、詣+見、聴、持、観、法次法向」の8つ×2=16です。
これが59頁に示された一切事経全体の最終結論です。

427 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 09:22:37 ID:SmEF4Oe2O
まとめ(その1)
批判側=信、戒、施、詣(見)、聴、持、観、法次法向

@自ら戒に立つも他をして正戒に立たしむること能わず。
A自ら浄戒を持つも他をして持戒具足ならしむるけと能わず。
B自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。
C自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣で往いて沙門を見せしむること能わず。
D自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。
E法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。
F自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を観ぜしむること能わず。
G自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。


@正信を具足し、A他人を建立し、
B自ら浄戒を持し、C亦浄戒を以て他人を建立し、
D自ら布施を行じ、E人に施を行ずるを教え、
F自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、G亦人に往きて諸の沙門に見えるを教え、
H自ら専ら法を聴き、I亦人に聴くを教え、
J自ら法を受持し、K人に受持するを教え、
L自ら義を観察し、M人に観察するを教え、
N自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、O亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。

428 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 09:30:41 ID:SmEF4Oe2O
まとめ(その2)
桐山さんと準シュダオンさんの主張=信、戒、施、聞、持、観、法次、法向

@自ら戒に立つも他をして正戒に立たしむること能わず。
A自ら浄戒を持つも他をして持戒具足ならしむるけと能わず。
B自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。
C自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣で往いて沙門を見せしむること能わず。自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。
D法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。
E自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を観ぜしむること能わず。
自ら深法を知り能くF法次G法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。


@正信を具足し、A他人を建立し、
B自ら浄戒を持し、C亦浄戒を以て他人を建立し、
D自ら布施を行じ、E人に施を行ずるを教え、
FG自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、亦人に往きて諸の沙門に見えるを教え、自ら専ら法を聴き、亦人に聴くを教え、
H自ら法を受持し、I人に受持するを教え、
J自ら義を観察し、K人に観察するを教え、
自ら深義を知りL法次N法向に随順して修行し、亦復た人に深義を解了し、M法次O法向に随順して修行するを教う。


窮屈な文章やのう。誰だ?こんな下手な文書いたのは?お釈迦さまか?

429 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 10:28:42 ID:SmEF4Oe2O
桐山さんと準シュダオンさんの主張=シャカの主張(信、戒、施、聞、持、観、法次、法向)

@自ら戒に立つも他をして正戒に立たしむること能わず。
A自ら浄戒を持つも他をして持戒具足ならしむるけと能わず。
B自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。
C自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣で往いて沙門を見せしむること能わず。自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。
D法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。
E自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を観ぜしむること能わず。
F自ら深法を知り能く法次に随順して行ずるも、人をして勧めて法次に随順して行ぜしむること能わず。
G自らさらなる深法を知り能く法向に随順して法向に行ぜしむこと能わず。
摩訶男よ、是の如き八法成就者は、是れを優婆塞能く自ら安慰し他を安慰せずと名づくなり」


何等を十六と為す。摩訶男よ、若し優婆塞、
@正信を具足し、A他人を建立し、
B自ら浄戒を持し、C亦浄戒を以て他人を建立し、
D自ら布施を行じ、E人に施を行ずるを教え、
F自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、自ら専ら法を聴き、G亦人に往きて諸の沙門に見えて法を聴くを教え、
H自ら法を受持し、I人に受持するを教え、
J自ら義を観察し、K人に観察するを教え、
L自ら深義を知り法次に随順して修行し、M亦復た人に深義を解了し、法次に随順して修行するを教う。
N自らさらなる深義を知り法向に随順して修行し、O亦復た人にさらなる深義を解了せしめて法向に随順して修行するを教う。



こうすれば簡単に意味が通じたのにね。
どうしてこういう文章が作れなかったのかしら?
シャカは国語力が乏しかったのかな?

432 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 11:40:59 ID:SmEF4Oe2O
>>430-431
私はあなたとの議論のキャッチボールの過程に於いてちゃんとあなたの意見を読んで
それを受けて踏まえて、八法十六法で論じる時、聞という語句は捨てて、
見(詣)と聴にすると表明したのを読んでないのですか?
独りで石を投げてないでキャッチボールしましょうよ。
七法だったら聞を使うべきなんですが、58頁だけだったらそうします。
ところが59頁で初めて八法十六法を整理分類したから、意味内容の深い考察
(読解から発展させた八法十六法の解体作業)などはこの段階ですべきでなく、
まずは経典作者が示す通りに原文に忠実に素直に数えたのです。
58頁だけを根拠に都合の悪い59頁は無視ですか?

433 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 13:00:51 ID:SmEF4Oe2O
>>426:準シュダオン10/12/04(土) 09:14:40 ID:1F7rdgXk0
>八法は内容で分けないといけませんよ。

あなたが以下だらだらと書いていることは、経典の解体作業といいます。
経典をまず正しく引用紹介して、次にそれを自分の考えで解体してみることは自由です。
自由ですが、それはあくまでも正しい引用紹介が済まされてから為されるべき作業ですね。
経典の作者の記述と自分の考えが誰にでもはっきりわかるように示す義務がある。
間違っても自分の考えに過ぎないものを経典の作者がそう喋ったかのように
思わせないことです。
だから順番としてはまず経典作者が示したまんまの言葉を紹介し、誰もが共通認識を
得られる物を提示する。
59頁に書かれている自利のみの八法とか自利・利他備えた十六法の数え方なんて
内容以前にあの文体を読めば、十人が十人私の数え方になる。
だからあなたが書いた文章ではなく他人が示した文章なんだから、不満があっても
文句を言わずに自分 の考えなどを入れてはならない。
自分の不満を残したまま提示するのが他人の文章を紹介する者の義務です。
春は曙と書いてあって、今は白鵬だろと思っても曙と示さねばならない。
皆が共通認識できる数え方をまず示して、次にこれは私見の分類であるがと
断り書きをして、見と聴なんて聞にまとめるべきだの、法次と法向は58頁でも
59頁でも常にくっついているが、本来分けて示した方がよいとか論じるべきですね。
桐山さんもこの作業が為されていない。
ってか桐山さんは経典の解体作業に相当すること自体を認識しておらず、
単に読み違えているだけです。
懇切丁寧に説明さしあげれば彼でも理解でき、自分の示した数え方の間違いを
認めざるを得ない。

434 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 14:53:55 ID:SmEF4Oe2O
>>430:準シュダオン10/12/04(土) 10:58:41 ID:1F7rdgXk0
>「仏陀の真実の教えを説く」P58の12行目から読みなさいよ。
>「信戒施聞受持観察了達深義随順行法次法向摩可男是名満足一切種優婆塞事」
>と、あります。
>下手な解説するよりも、上記の「 」内から、八法を数えて見なさいよ。

その白文だけ何も知らずに示されればたしかに信、戒、施、聞、持、観、法次、法向の
8分類のように見えますね。
しかしではその58頁より後の59頁に相当する↓はどう説明します?
番号と…()だけこちらで付けただけで、桐山現代語訳を引用しています。
引用元の経典はこのようにわかりやすくきれい8対16組の文体を意図的に
示しています。

T@正信を具足し、A他人を建立し、…(信)
UB自ら浄戒を持し、C亦浄戒を以て他人を建立し、…(戒)
VD自ら布施を行じ、E人に施を行ずるを教え、(施)
WF自ら塔寺に詣で諸の沙門に見え、G亦人に往きて諸の沙門に見えるを教え、…(見)
XH自ら専ら法を聴き、I亦人に聴くを教え、…(聴)
YJ自ら法を受持し、K人に受持するを教え、…(持)
ZL自ら義を観察し、M人に観察するを教え、…(観)
[N自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、O亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。…(法次法向)

435 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 15:13:33 ID:SmEF4Oe2O
桐山現代語訳ではなく和訳書き下し文でした。
そちらの方が検証はより公正にできますが。

436 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/04(土) 17:29:01 ID:SmEF4Oe2O
>>426:準シュダオン10/12/04(土) 09:14:40 ID:1F7rdgXk0
>しかし、法次と法向は意味が違います。法次法順とか、法次法従、なら一つに
>考えても良いでしょう。或いは、法上法向とか法深法向なら、一つの意味と
>考えて良いでしょう。だが、法次と法向は違うのです。

>経典を見ても、「随順知法次法向」と「随順行法次法向」と「随順修行法次法向」
>との三つの書き方があります。繰り返しのように見えても、>単純な繰り返しでは
なく、違っています。
>「随順知法次法向」は、知らない法は知るように追求せよ、法向のことです。
>「随順行法次法向」は、知ってる法に従って実行せよ、法次のことです。

意味不明なことぼやいて、字面だけ拾って勝手な憶測を書いてないで、そこの漢文は
著書の中に和訳書き下し文と桐山さんによるものと思われる現代語訳があるのだから
そこを読みなさい。
ったく本の読み方も知らんのか?


自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずる

自分は深遠な仏法を知り、法に近づき、法を追求して


自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、
亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。

自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追求すると共に、
他者に仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。

437 :ラシン:2010/12/04(土) 21:47:43 ID:98U1EaJc0


法次法向
私見ながら熟考すれば、私なら「継往開来」的な意味で受け止める。
次とは次ぐで「継ぐ」です。
法えを 信、戒、施、見、聞、持、観、という行いを以て受け継ぎ切り開く。
だから、上記七種に比してわざわざ個別に分類する必要などどこにもないのです。
ユビさんが指摘したように、釈尊が刻苦勉励とか奮励努力とかの指針を示したにすぎない。
たとえば、「自ら深義を知り『奮励努力』することによく従い修行しなさい」
でも一向に構わない。
なんとなれば仏道を歩むことを奨励していることになる。
しかし、アゴン信者の多くは桐山さんから○○法と言われれば、何か特別の力と誤解する。
私なら素直に、在家なら八つの方法を相手にも勧めて合計十六の方法が素晴らしいのだ、
と理解するものですね。
だから単純に在家に仏教奨励を説いてその行為の価値を讃えたものに過ぎない。
それで何かしらの結果境涯を得ると言う具体法が示されていないのが、
何よりの証左だからです。

443 :ラシン:2010/12/05(日) 12:16:40 ID:98U1EaJc0
>439 :準シュダオン:2010/12/05(日) 09:43:18 ID:1F7rdgXk0
わたしは、管長の此の和訳書き下し文を、
1、既に深義を知っている法は随順に行じ、
2、未だ知らない法はもっと知るように追求せよ、
との、具体的な二つの意味に分解しますね。

在家出家を問わず、具体的な法えは八正道ですよ。
しかしこんな老人が日本社会をけん引してきた一部なのかあ、と思うと情けない。
上記2項目のどこに具体的な法えがあるんだあ?
八法十六法とは、例えば学生は校風を信じ守り相手にも教え、ズル休みせず、
登校して師や先輩を見習い講義を聴き、聞いた講義内容を忘れず復習し、
学んだことを切磋琢磨し、友人仲間にもそれを奨励しなさい。
そうする者は近所世間において立派な学生さんだと讃えられます。

ようはこんなことを言っているだけなのに、何かしらスン晴らしい講義内容を
受講して司法試験でも受かるような錯覚を起こしている。
早読みして大げさに喜んだ桐山さんのいつもの慌てたゆえのマチガイに踊らされたタコだ。
スローガンを掲げられると、さもそれですべてが達成成就されると思い込む世代かあ?
釈尊金口の法・仏法の神髄・消滅した釈迦の法の復活・エロいお姉ちゃん大サービス・
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ほうら、キャッチコピーに満面の涎れを垂らして追随し回るのは誰だあ?

446 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/05(日) 18:09:37 ID:SmEF4Oe2O
>>444:準シュダオン10/12/05(日) 13:11:43 ID:1F7rdgXk0
>ユビさんの見解を聴きたいところですね。

今頃この問題に気付いたのか?
あのねえ、他人の書いた書き込みは注意してよく読みなさいね。
その問題については私も深山さんも触れています。
私も見解を示しました。
自分で遡って調べてみなさい。
遡るったって、この八法十六法論議が始まってのことだからつい最近のことであり、
前スレまで遡るような話ではない。

450 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/06(月) 12:43:25 ID:SmEF4Oe2O
>>449
遡って読む読まないはそちらの決めることですからご自由に。
まあ今回サービスしときますか。
>>315で深山さんがこれについて触れてますし、>>324の後ろの方で私がこれについて
見解を述べています。
結論から言うと桐山さんだろうと、他の学者さんだろうと十六法でない八法を
信と分類しても捏造には相当しません。
総合的判断というものです。

451 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/06(月) 13:04:42 ID:SmEF4Oe2O
総合的判断とは平たく言うと多数決と思っていただければよい。
まず詣+見+聴=聞とした白文58頁に相当する説明で信が説かれ、次にこれをまとめた
自利の八法の説明(白文59頁)で戒に立つと説かれ、次の十六法ではまた正信
となった。この3セットの多数決で信を採用したというわけ。
だから我々もこの件で桐山さんを批判したことはない。
ご安心されましたか?
間違いですらないと思う。
表現を変えただけです。
戒に立つとは戒律を受けてこれからそれを守り抜く立場に立つぞ、すなわち入信を
意味する。次に実際にその戒律を持し守り抜き実践することですね。

452 :ラシン:2010/12/06(月) 13:29:38 ID:b9Cg2rfo0
>448 :準シュダオン:2010/12/06(月) 09:04:39 ID:1F7rdgXk0
管長の場合は、前世、前々世から、密教を修行していたので、中年から入って
も大成したわけですよ。

ユビさんの皮肉もさすがにこの厚顔のお方の皮膚は貫かないようだ。
桐山さんは、どこぞの神主さんに須佐の王の生まれ変わりと認定されたのですよ。
それをホー話で嬉々として述べていた。
さすがに法友と顔を見合わせて首を傾げた記憶がある。
須佐の王といえば神話の時代です。
その境涯の高い桐山さんが、いったい何世の輪廻を通して密教修行者になり得たんだ?
釈尊に言わせれば、その天にも匹敵する境涯主サマがさらに幾多の輪廻を繰り返し、
前世、前々世はただの密教修行者だと?
桐山さんは、若い自分から衣帯不解で一意専心して修行に励んだはずだ、らしい。
しかし、擁護するのもあまりに前世という理屈と数が合致しないと気づかないか?
四沙門果を偉そうに講釈する割には、桐山さんの果実が乏しすぎないか。
今生に於いてすら、兵役逃れ疑惑や手形詐欺、密造酒犯罪に関係している。
今になってすら色情の因縁をさらけ出した。
そんな桐山さんが中年から大成しただ? 本人の申告と違いやしませんか?
桐山さんは自分を晩年運だと言っていた。
それも電力の鬼と言われた松永安左エ門と同じ晩年運と言い、囹圄の人であったまでを
紹介して自分の過去の犯罪を薄めようとした。
桐山さんのこういう手法は実に計算尽くしの上で、保身と弁解を他人に語らせている風を装うのが、
非常に上手い。
だから逆に多弁となり、言わなくてもよいことのために疑念を生じさせる。
策士策に溺れて語るに墜ちる、とは桐山さんこそ反面教師だ。
たった二行にも満たない桐山賛美文が、かようにドラマを含んでいる。
それもすべて?が必ず付いてしまう人生ドラマだ。

453 :ラシン:2010/12/06(月) 14:09:23 ID:b9Cg2rfo0

戒とは、「置く」や「保つ」を意味するサンスクリットあるいはパーリ語の
[シール]から派生したという。
在家には戒はあっても律は無いでしょう。
戒は律とは異なり、あくまで自発的な決意に基づいた、
日常における行為の原則・指標となる心がけと解釈されています。

ゆえに傍流の考え方として述べるなら、
自発的であればこそ、信がなければ戒は成立せず、しかも保てない。
浄戒としたのならなお更、その心底には信と言う確たる心がけが必要ですから、
浄戒は信を強めた意味と考えることも可能ではないだろうか。

454 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/07(火) 08:14:54 ID:SmEF4Oe2O
>>444:準シュダオン10/12/05(日) 13:11:43 ID:1F7rdgXk0
>実は「仏陀の真実の教えを説く」本の一切事経P59の2行目には、写経して
>伝承しているうちの、写経のミステイクではないか!と思われる部分があります。
>前にも少しレスしましたが、それは、2行目の書き出しから、

>>449:準シュダオン10/12/06(月) 09:15:12 ID:1F7rdgXk0
>私は昨日気付いたのではなくて、その前に戒が無いことをレスしていますよ。

それが>>444以前にあなたの書き込み記録に見当たりません。
あなたの今回の八法の数え方に対する書き込みは、

>>281:準シュダオン10/11/25(木) 13:09:34 ID:1F7rdgXk0
>わたしゃ、一生休むわけではないよ。
>ユビキタスさんとは、優婆塞の8法の数え方でも、意見が違ってたね。

に始まるのですが、それまでに聞が消えたり現れたりする問題とか見の問題、
法次と法向の問題、信戒施聞は3回も出てくるとか書いているだけで、信が消えたり
現れたりする問題、戒律に変わってしまっている問題を、あなたがようやく出した
のは>>444が初めてでした。
そもそも>>444で信が無い!と言っているのに、>>449では早くも戒が無いなどと
自分でテーマを見失ってますがw
記憶に頼るよりも記録を遡って調べる作業をすれば済む話でした。
書いたものは記録に残るし、書かないものは記録に残らないことは歴然としており、
誰にでも追認検証できます。

457 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/07(火) 16:14:23 ID:SmEF4Oe2O
>>455
これは失礼しました。↓ですね。

>>303:準シュダオン10/11/27(土) 08:31:28 ID:1F7rdgXk0
>同じく、P59の6行目に「如是八法成就者」と、出ています。是の八法の
>説明は、「浄戒、布施、見諸沙門、聴法、受持法、観察、法次法向」です。
>あれ!信が抜けて、7法になっていますよ!経典で確かめてください。

私も他人のことをとやかく言えませんね。
お互いに相手の文章を読み落としていたのならば、アイコですが、今回は私は
遡って読みに行って落としているのだから私の負けです。
失礼いたしました。

458 :ラシン:2010/12/07(火) 16:44:34 ID:b9Cg2rfo0
>一切事経には、「随順知法次法向」と「随順行法次法向」と「随順修行法次法向」
の記述があることは何度かレスした。
簡単にいうと、法次法向には、「知る修行」と「行じる修行」の二つがある、
ということですね。

ま〜だゴマカシをやめないようですね。
上記に拠ればの話しだと二つじゃなく、法次法向を「修業する」の計三つになるじゃないの。
「随順知法次法向」という経区で、ほんとにあるの?
もしあるなら「知」や「行」とは、
>知った法を行じる=法次 と、もっと法を追求して知る=法向 ですよ。
ではなく、
知った法を行じる=法次→「随順行法次」と、もっと法を追求して知る=法向→「随順知法向」
と書かれるべきじゃないの。
その意訳じたいは、非常に怪しいけどね、笑笑笑笑笑。
レ点が付いていないことで、勝手につなぎ合わせていないならばの話しですが。

459 :ラシン:2010/12/07(火) 16:56:08 ID:b9Cg2rfo0

<その意訳じたいは、非常に怪しいけどね、>

456の経典引用は
>>427で、ユビさんが引用した、

自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。
自ら深義を知り法次法向に随順して修行し、亦復た人に深義を解了し、法次法向に随順して修行するを教う。

これらの白文を混ぜこぜにしていませんよね。

466 :深山:2010/12/09(木) 12:37:41 ID:2Tf2Ihqc0
>>462 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/12/09(木) 09:34:13 ID:7u367KhY0
>ユビさんの解説にもありましたが、全体の意については捏造は無いが、この区分について
>は間違いがあるといっているのが本が届いて見たところ、よくわかりました。

そのとおりです。
桐山さんの早とちり、一知半解が原因です。
他に理由などありません。
桐山さんが安井さんの本を丸写しにしたことも原因だが、安井さんは「見」を
数えています。
つまり、桐山さんは安井本を種本に使いながら、その解説を
丁寧に読むこともしなかった。
また、仙尼経同様に、國訳一切経で確認すらしなかった。
種本の経典を丸写しにして、斜め読みして、解説をしたのです。
ところが、この経典は説明に一貫性がない。
桐山さんは一部だけを読んで、解釈したために、「見」を抜いてしまったのです。
桐山さんは二重三重の意味で斜め読みで、意味を理解できない人なのです。
だから、これまで隼シュダオンさんとの議論などほとんど無意味で、結論は、
「桐山ゲイカのドジ」「桐山ゲイカの早とちり」
これに尽きます。

467 :深山:2010/12/09(木) 12:41:13 ID:2Tf2Ihqc0
>>462 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/12/09(木) 09:34:13 ID:7u367KhY0
>ユビさんの解説にもありましたが、全体の意については捏造は無いが、この区分について
>は間違いがあるといっているのが本が届いて見たところ、よくわかりました。

一切事経の八法、十六法を文字通りに数えると、何種類もあることになってしまう。
一つ一つ別なものだと、わかったかのように屁理屈をならべているのが、
隼シュダオンさんです。
だが、騙されないことです。
彼の理屈は常に、桐山擁護のための詭弁であり、自分が引用した部分の
狭い解説であって、他の部分や全体を見た時には成り立ちません。
狭い解説では一見成り立つかのように見せかけているだけです。
たとえば、私も指摘した件で、隼シュダオンさんは>>303で
7法だなどと書いている。
7法ではなく、「戒」「浄戒」と釈尊は二つ並べてるのだから八法です。
桐山さんの現代語訳(40頁)では勝手にこれを一つにまとめてあるから、
隼シュダオンさんは7法などと見事なインチキを書いている。
都合の良い時は原文や書き下しを用い、都合が悪くなるとそれら無視して、
桐山解説を持ち出す。
この人は桐山説に合わせてご都合で屁理屈を並べているにすぎない。

468 :深山:2010/12/09(木) 12:46:20 ID:2Tf2Ihqc0
>>462 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/12/09(木) 09:34:13 ID:7u367KhY0
>ユビさんの解説にもありましたが、全体の意については捏造は無いが、この区分について
>は間違いがあるといっているのが本が届いて見たところ、よくわかりました。

原文や書き下し(38−39頁)では、一番目の「戒」「正戒」と2番目の
「浄戒」「戒」を分けて述べているから、両者は違う物だということになる。
では、一つ目の「戒」と二つ目の「戒」は違うのか。
同じならなぜわざわざ二度同じ事を繰り返したのか。
二種類の戒のある八法を説いたのか。
どう思いますか。
こんなふうに一切事経には、「見」の件だけでなく、説明に元々矛盾があるのです。
それを隼シュダオンさんみたいに一つ一つ、バラバラの別々な事を
説いたのだと解釈するのですか。
この経典では、最初は「見」を説いて、途中から「見」を抜いており、
また、最初は「信」を説いて、次には「信」を抜いて「戒」が二度も出てきて、
それでいて最後はまた「信」と「見」を出す。
この経典を文字通りに読んでしまえば、こんなふうに一貫していない。
それを一つの八法十六法を説いたのではなく、隼シュダオンさんみたいに、
別々の内容を説いたなどと解釈するのでしょうか。
隼シュダオンさんを見ていると、テントウムシの分類の話を思い出す。
ナミテントウは点の数、体色など様々あり、それらがちょっとでも違うと
別種であると解釈したという笑い話です。
だが、それらはナミテントウという同じテントウムシです
隼シュダオンさんは、「こちらのテントウムシは点が二つで、あっちは四つあるから
別種に決まっている、W」などと言っているのです。
彼の屁理屈、詭弁に惑わされないことです。

469 :ユビキタス ◆oGqIQwSRtg:2010/12/09(木) 12:49:37 ID:SmEF4Oe2O
>>462
国訳一切経の件ありがとうございます。
そのとおりです。悪意ある捏造はないが、資料(経典)をよく読まないが為に
間違った数え方をしている。それにより経典の意味主張が変わることはないが、
国語文脈の上から間違いは間違いであり、他人にわざわざ示すのに注意が明らかに
不足している。

>>464
天照さんの書き込みをまたしても読んでないのでしょうか?
つまりあなたは国訳一切経の一切事経に書かれている(1)から(16)の付番は愚かな
間違いだと言いたいわけですか?
ちなみに桐山さんも国訳一切経は読みあさったことを著書に示しています。
ならばこれを知っているはずだ。
国訳一切経の数え方が間違いだと言いたいならば、その旨コメントすべきでは
ないですか?

470 :深山:2010/12/09(木) 12:50:26 ID:2Tf2Ihqc0
>>462 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/12/09(木) 09:34:13 ID:7u367KhY0
>ユビさんの解説にもありましたが、全体の意については捏造は無いが、この区分について
>は間違いがあるといっているのが本が届いて見たところ、よくわかりました。

別な八法十六法だと主張するのは隼シュダオンさんの自由です。
だが、学者はただの一人も隼シュダオン流の解釈はしていない。
彼らはちゃんと経典を読み、矛盾点など百も承知で、なおかつ、八法十六法を
@信A戒B施C見D聞E持F観G法次法向
と解釈しているのです。
天照さんの持っている安井さんの講義でもこの分類です。
これは、阿含経での釈尊の説き方を知っているからです。
阿含経の釈尊の説き方とは、煩雑複雑な事を次々と並べるということはしない。
たった一つの簡単なことを繰り返し、表現を変え、
手を変え、品を変えて説明するのが釈尊のやり方です。
だから、一切事経という一つの経典の中で、複数の八法十六法を説いたなど
ありえないのです。
我々は文字で読んでいるから、「見」や「信」があったりなかったりすることに気がつく。
だが、言葉で聞いている人たちの多くは気がつきません。
それなのに、その説明過程で次々と釈尊は別な八法十六法を説明するのですか。
説いているのは在家のマハーナーマであり、在家のために説いているのですよ。
学者や研究者に文字で説明したのではなく、ド素人の庶民に言葉で説いているのです。
文字に直さないと気がつかないような煩雑な八法十六法を、
在家の人たちに説いたはずはありません。
こういう大前提を無視して、字面にのみ取り憑き、机上の空論を並べて
一人自惚れているのが準シュダオンさんです。

471 :深山:2010/12/09(木) 12:54:30 ID:2Tf2Ihqc0
>>462 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/12/09(木) 09:34:13 ID:7u367KhY0
>ユビさんの解説にもありましたが、全体の意については捏造は無いが、この区分について
>は間違いがあるといっているのが本が届いて見たところ、よくわかりました。

釈尊が説いている相手や現場を考えたら、一つの八法十六法を説いたことは
当たり前すぎるほど当たり前のことです。
単に、釈尊が「信」というべきところを「戒」を出してしまったか、
あるいはアーナンダが聞き間違えたか、後世の人が写し間違えたか、
そんなところであって、釈尊は違う八法、別々の十六法、違う七法などを
説いたのではなく、たった一種類の八法十六法を説いたのです。
こういう前提に立たないと、隼シュダオンさんのようにゴチャゴチャとした
小手先の解釈ばかりするようになる。
違う八法十六法を説いたという隼シュダオン説を相手にしていると、
まさに泥沼の議論になります。
だが、桐山さん自身が、複数の八法十六法があるなどと言っていない。
だから、隼シュダオンさんの説いているのは隼シュダオン説であって、
本来、ここでの議論とは関係のない個人解釈です。
主張したければ自分のスレなり、ホームページで議論するべき内容です。
だが、いくら彼にそれを言っても無視して、テントウムシの点の数が
違うから別種だという詭弁が始まる。
議論する時は、範囲や前提が非常に重要で、これを無視する人が出てきて、
彼らを相手にすると詭弁の泥沼に入り込みます。
前提を無視して、自分に都合の良い部分だけを出すから一見正しいかのように錯覚させる。
隼シュダオンさんやペテン大作さんがその典型です。

472 :深山:2010/12/09(木) 13:06:19 ID:2Tf2Ihqc0
>>462 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2010/12/09(木) 09:34:13 ID:7u367KhY0
>ユビさんの解説にもありましたが、全体の意については捏造は無いが、この区分について
>は間違いがあるといっているのが本が届いて見たところ、よくわかりました。

釈尊は一切事経で一種類の八法十六法を説いた、これが大前提で、
問題は、ではどれがその八種類なのかという点のみです。
再度申し上げるが、八法十六法が一種類であることは桐山さんも認めている。
だから、これをまず前提として議論をするべきです。
そして争点はたった一つ、「見」「法次法向」をどう考えるかだけです。

桐山説 @信A戒B施C聞D持E観F法次G法向
学者説 @信A戒B施C見D聞E持F観G法次法向

ここに議論の争点を絞るべきで、やれ、「聴」と「見」が同じなのか、
「詣」と「見」は別なのかなどという言葉の違いを指摘する隼シュダオンさんの
詭弁に巻き込まれないとです。
阿含経では、同じ事を別な表現で表すのは珍しくありません。
珍しくないどころか、積極的に別な言葉を用いることが多い。
応説経では、結縛、使、纏を切れとあるが、別々の物ではなく、煩悩のことです。
そして、もう一つ重要なことは、上記に私がわざわざ学者説と書いたように、
これは批判側の説ではなく、学者の説だという点です。
経典を詳細に読み、検証した学者たちの説です。
ド素人の準シュダオン説など出る幕がない。

473 :深山:2010/12/09(木) 13:15:54 ID:2Tf2Ihqc0
桐山説 @信A戒B施C聞D持E観F法次G法向
学者説 @信A戒B施C見D聞E持F観G法次法向

すでに何度も指摘しているように、桐山説が成り立たないことは、
経典での法次法向の記述をみれば明かです。
一切事経では八法十六法をくり返し説明する時、一貫性がないことは述べました。
しかし、法次法向については、一貫した説明をしています。
法次と法向を別々には説明していない。
経典では@からFまではそれぞれ一つとして説明しているように、
法次法向も例外なく、一つにまとめて説明している。
この構成を見れば、法次と法向が別物だという桐山説は成り立ちません。
準シュダオンさんは法次と法向の内容を別物だと説いているが、
それは準シュダオン説です。
八法とは釈尊が説き、その釈尊が一つにまとめているのだから、法次法向は一つのものです。
準シュダオンさんの説明など余計なお世話であり、
釈尊の分類に準シュダオンさんごときが口を出すのは僭越です。
釈尊が法次法向を一つのものとして分類しているのです。
法次法向が一つなら、桐山説は成り立たなくなる。
そのとおりで、学者説のほうが経典の釈尊の説明を矛盾なく説明しています。
議論する必要がないほどにあまりに明瞭で当たり前な内容です。
すべては桐山さんの一知半解と、間違いを絶対に認めたくないという知性と煩悩の問題です。

474 :ラシン:2010/12/09(木) 13:19:14 ID:b9Cg2rfo0
>462天照
まず、桐山氏の分類(区分)が間違っているということです。
その原因は桐山氏が『國訳一切経 阿含部3』から調べないで『阿含經講義』(安井廣度)
から転記ミスがあるのを知らないまま引用した経緯が見られるということのようです。
(過去ログデータより)


たしか過去ログで深山さんが指摘していました。
國訳一切経 阿含部3 経番1119から。Pだと450〜452頁から(一切事経)として掲文されている。
雑阿含経巻第四十六です。
八法に関しては、天照さんの指摘通りしっかりと番号が付けられて標記されています。
その部分を抜粋します。

(1)自ら戒に立つも他をして正戒に立たしむること能わず。
(2)自ら浄戒を持つも他をして持戒具足ならしむるけと能わず。
(3)自ら布施を行ずるも施を以て他を建立すること能わず。
(4)自ら塔寺に詣で諸の沙門を見るも、他に勧めて塔寺に詣で往いて沙門を見せしむること能わず。
(5)自ら専ら聴法するも、人を勧めて正法を楽聴せしむること能わず。
(6)法を聞いて自ら持するも他をして正法を受持せしむること能わず。
(7)自ら能く甚深の妙義を観察するも、人を勧めて深義を観ぜしむること能わず。
(8)自ら深法を知り能く法次法向に随順して行ずるも、人をして勧めて法次法向に随順して行ぜしむること能わず。

これでいけば、戒・浄戒・施・見(詣)・聴・・観・法次法向の八つです。
尚1121頁においては、十六法を説く上で(1)で正信を具足し、と信が出てきます。
前頁に於いても、「若し優婆塞信有り戒無くば、是れ即ち具せず」とあるように、
信戒は優婆塞にとって車輪の両輪のごとく必須だと言うことが分かります。
しかし法次法向は、常に「ひとつの法え」として取り扱われている。
法次法向は、下段にて「不能如説修業」と訳注されています。

ですから、法次と法向を分けた詭弁など通用しません。
ネットでも確認できますよ。
http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky038800uoft#page/104/mode/2up
  ※>>474記事内の赤字は後でラシンさんが訂正をされていた箇所で天照が修正補記した箇所です。


以上簡易抜粋「阿含宗と桐山氏について◆第52章【オイラの祭典・マヤかしの祈り】」より転載。

転載記事の原文及び簡易抜粋のため割愛されている箇所を確認・参照する場合は下記のアドで。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/3419/1288333436/




ここはしたらば内でのザビビ継承スレである「阿含宗と桐山氏について」の第五十二章で展開
されている「優婆塞の八方十六法」についての批判側の意見抜粋ダイジェストです。
記事全般を見て把握するのが本当は一番いいのですが、抜粋物の需要のために編纂しました。
ここでは極力話題に特化してそれ以外のものはカットしていますのでご了承下さい。
記事原文をお読みになりたい方は「阿含宗と桐山氏について◆第52章【オイラの祭典・マヤかしの祈り】」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/3419/1288333436/l50 をご覧になってください。