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A
B
C
@の「布施」は先ほどにも出てきましたが、本当の仏教の「布施」と阿含宗の「布施」は内容が違います。
本来「布施」は如来(仏様〜お釈迦様)とそのお釈迦様の弟子たちに対して食べ物や衣服などをご供養の行為として
差し上げることを指します。またお釈迦様の教団に対して土地や建物なども提供(供養する)のも該当します。

しかし、お釈迦様が亡くなられた後は如来は居られませんので、弟子たちと教団への供養がメインとなりますが、
お釈迦様の遺骨の前に食べ物なども供えたいという意思の信者さんが多かったため、供えることも多くなりましたが、
本当は生きているお釈迦様と弟子たち、そして教団へ供養をすることが布施であり、また貧者や困窮者にも食べ物や
助けを与えることも「布施」だとお釈迦様は言われています。

ですが、もう二千数百年も湾曲された仏教の流れがあるので、私たちはお寺さんやそこにいるお坊さんにお金などを
捧げる(供養)することが「布施」と思っておりますが、それは100%正しくないのです。
なぜなら、如来はもうこの世には居らず、供養は出来ません。
また本当の仏教を講じている寺もほとんど皆無です。
ですから本当の布施を行うなら、貧者や困窮者を助ける活動が現在の正しい「布施」に該当するのです。

このように「布施」が在家修行者(信者)の”修行法”〜成仏法であると誤認させ行わせているのが阿含宗です。

Aでは仏教に無い「因縁解脱」を出してきてこれも信者に信じ込ませ従わせようとしています。

Bでは徳にからむ事項として説明をしている箇所であります。
阿含宗では、修行が進まない、障害が起きるというのは「悪因縁を持っているのと不徳だからだ」という
認識を植えつけることで阿含宗の教学に沿わせることが要なのでこういう言葉が出てくるわけです。
そしてCで尚も認識の上塗りを重ね、深く納得させるのが桐山氏の手口なのです。

※仏教では不徳だから不幸ごとがおきるとか、修行ができないなどは言いません。
また積徳の行を以って修行に代えるというようなこともありません。
サルにでも分かるアゴンのインチキと嘘 〜一切事経編〜解説6P目